1921年夏、家出先の東京で「トシ ビヨウキ スグ カヘレ」という電報を受けとった賢治は、大きなトランクを下げて花巻駅のホームに降り立ち、弟清六に迎えられました。弟はまずそのトランクの大きさに驚き、兄は決まり悪そうに苦笑いして、「やあ」と言ったそうです(宮澤清六「兄のトランク」)。
その兄弟再会の場面に続く、次の箇所は有名です。
さて、そのトランクを二人で、代りがわりにぶらさげて家へ帰ったとき、姉の病気もそれほどでなかったので、「今度はこんなものを書いて来たんじゃあ」と言いながら、そのトランクを開けたのだ。
それがいま残っているイーハトーヴォ童話集、花鳥童話や民譚集、村童スケッチその他全集三・四・五巻の初稿の大部分に、その後自分で投げすてた、童話などの不思議な作品群の一団だった。
「童児(わらし)こさえる代りに書いたのだもや」などと言いながら、兄はそれをみんなに読んでくれたのだった・・・。
さて、ここで賢治が自身とその作品との関係について述べた、「童児(わらし)こさえる代りに書いた」という表現には、いったいどのような意味が込められているのでしょうか。今日は、それをちょっと考えてみたいのです。
まず感じとれるのは、東京での自らの家出生活についての示唆ですね。彼は東京滞在中に女性と親しくなったり、ましてや子をもうけたりすることはなく、粗食に耐えつつ創作と宗教奉仕活動に明け暮れ、文字通り「禁欲的」な生活を送っていたようです。
「家出した息子が久しぶりに故郷に現れ、驚く家族を前に、妻を紹介したり赤ん坊を見せる」などという話がありますが、満25歳にならんとする賢治の家出生活は、その対極にあったわけです。
ちなみに、同郷の先輩である石川啄木の場合には、盛岡中学校を退学になった後、16~17歳と18~19歳の頃に出京して中央文壇と交友を深め、19歳で堀合節子と結婚し、20歳で長女をもうけ、26歳の死の直後に次女が生まれています。
賢治は、このように自らが起点となる「家族」を持つということには、終生意を向けることはなく、その「代りに」、書くことにエネルギーを注ぎました。
それからあともう一つ、この言葉に関しては、また別の観点からの理解もできるでしょう。それは、賢治としては自らが創造した作品のことを、「我が子の代わりのような存在だ」と言っているのだと、受けとめてみることです。
このような解釈に立てば、賢治作品の持つ独自の特徴が、またあらためて腑に落ちる感じもしてくるんですね。
第一は、賢治の作品の「成長」という特徴です。彼は、作品をいったん紙の上に書いてからも、それに「一定の推敲を加える」などという生やさしいスタンスではなくて、本当にいつまでも果てしない書き直しを重ねます。これによってそのテキストは、何年も十何年もの間たゆまぬ発展を続けることになりますが、これはまさに、親が子を「手塩にかけて育てる」という態度にそっくりだと思うのです。
芸術的創造物というものを「果実」に喩えて表現することもありますが、果実というのはいったん熟して穫り入れたら、あとはそれを「味わう」だけですね。これに対して、赤ん坊を産んだ後もずっと精魂込めて育てていくという行動は、哺乳動物としては(とりわけ人間にとっては)、種の存続を賭けるほどに決定的な特徴です。
それから第二は、賢治作品の多くに付けられている「日付」のことです。『春と修羅』第一集~第三集の全作品や、『注文の多い料理店』に収められた童話に見るように、賢治は作品を最初に書きつけた年月日を、几帳面に記録していました。そしてこの日付は、テキストが後に何度も稿を改めて書き直されていっても、何年たっても最初のまま保存されていきます。これは「発想日付」などと呼ばれたりしていますが、その意義や解釈については、様々な説があるようです。
ところでこの「年月日」というのは、もしも作品が「我が子」だとすれば、その「生年月日」にあたるわけですね。
親が子の誕生日をいつまでも心に留めるように、賢治は厖大な数の愛し子が世に生まれ出た日を、それぞれ成長の姿とともに書きとめていたのだろうか・・・というのは、あまり学問的ではないものの、作品日付に関する一つの空想です。
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