賢治が泊まった三条小橋の旅館「布袋館」について昨日書きましたが、この宿は昭和の初期には、京都を訪れる修学旅行生の宿泊にもしばしば使われていたようです。
跡見女学校(当時)の1928年(昭和3年)修学旅行を記録した「關西修學旅行の記」のページの下の方、「五年生記録係」による「第四日」の項を見ると、「朝九時布袋館を出發、嵐山に向ふ」との記載があります。それにしても当時の女学生による旅行記は、ほんとうに生き生きとしていますね。
また、デジタル系ライター荻窪圭氏の2001年2月の日記で、02/06 の項を見ると、「新津高等女学校・印南イネさんの修学旅行日程」が引用されていますが、「4月30日金曜日」に、「午前9:30三条駅下車。京都見学。京都泊(布袋館)」とあります。
この頃の布袋館は、きっとかなり繁昌していたのでしょう。
JIT
布袋館というのは主に女学生用の修学旅行宿泊施設だったのでしょうか?大妻女学校第九回関西方面修学旅行の第4日目と第5目の宿泊所として利用されています。昭和8年11月2日および3日のことです。昭和8年は、小林多喜二が虐殺された年でありました。宮沢賢治はその年9月に38歳で亡くなってるんですね。
hamagaki
JIT様、貴重な情報をありがとうございます。
たしかにご指摘のように、私がネット上で見かけた記録と言い、今回お寄せいただいた情報と言い、「女学校」ばかりですね。
当時の「布袋館」が、「女学生用の修学旅行宿泊施設」という状態だったのかどうかはわからないのですが、現在の京都の旅館を見ていると、「修学旅行生向けの旅館」と「修学旅行生は泊めない旅館」という二種類に、大きく二極分化しているという感があります。
昔も今も、京都は修学旅行の行き先にされることが多く、修学旅行生が泊まる宿の需要は、相当たくさんあります。旅館にとってこれは重要な固定客のはずですが、一方で、修学旅行生を受け入れるためには、かなり大規模の設備が必要であり、またノウハウの蓄積も要求されるでしょうから、どこの旅館でも受け入れるというわけにはいきません。またさらに、こっちの事情の方が大きいのかもしれませんが、一般の旅行客というのは、騒々しい修学旅行生と同宿するのは、けっこう嫌がるものです。
そんなわけで結局、修学旅行生を当て込む旅館は、毎年彼らの受け入れに重点を置き、他方で一般客のアメニティを重視するやや上等な旅館は、たとえ学校から頼まれても修学旅行は扱わない、という分業ができているように思います。
「女学生用」というさらなるターゲット化は、現在の京都の修学旅行生用旅館では見受けられないように思いますが、おそらく昔は、「うちの女学生と、同宿した他校の男子学生との間で、万一にも‘問題’があってはいけない」というようなことを、学校側も保護者も今より気にしたのかもしれません。そうであれば、修学旅行生用旅館の中で、女学生向けに特化していくものがあっても不思議はありませんね。
昭和初期の「布袋館」には、三条小橋の「本館」に加えて、少し西の三条河原町には「別館」もあったということです。ここはかなり大規模な旅館で、かつ女学校も安心して利用するような、信用のある宿だったのだろうと思います。