文語詩定稿の形式について(2)

 「和讃」とは、平安時代中期に成立した仏教歌謡の一種です。和歌の音律とも共通した「七・五」からなる句を連ねていくという形式をとり、内容的には、仏や菩薩の功徳、仏の教えの尊さとありがたさ、祖師高僧等の行跡などを、誉め讃える歌になっています。

 それまで日本では、漢訳の経典を通して仏教を理解し受容するのが当然とされていましたが、この時代に、「和讃」という誰にでも理解でき口誦しやすい形式の歌が成立したことによって、日本人は初めて自分たちの言葉で、深い信仰について直接に語り合うことができるようになったわけです。ここにおいて仏教は、貴賤道俗を越えて広がるための重要な手段を得たわけで、それは潜在的に鎌倉時代の新仏教の出現にも連なる意義を持っていたと言えるでしょう。
 こちらに、現存する最古の和讃の一つと言われている千観の「極楽国弥陀和讃」をアップしておきます。[七・五]の句が3つ縦に並んで1行を成し、その23行で構成されています。だいたいにおいて初期の和讃(古和讃)は、このように長文であったようです。


 一方、歌謡の世界においては、平安時代の末期になると「今様」という形式が大流行します。当時、「今様」収集に精魂を傾けていた後白河法皇が、その成果を『梁塵秘抄』にまとめてくれたおかげで現代の私たちもその一端に触れることができます。
 その最も有名な歌の一つ、

 遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん、遊ぶ子供の聲きけば、我が身さへこそ(ゆる)がるれ。(三五九)

のように、『梁塵秘抄』に収められた歌の大半は、[七+五]×4という形式をとっており、この音律は、後に「今様形式」とも呼ばれるようにもなります。

 さて、平安中期に誕生した「和讃」は、このような「今様形式」の影響も受けつつ、鎌倉時代に親鸞という巨人の登場によって、新たな展開を見せました。武石彰夫氏は、その著書『和讃 仏教のポエジー』(法蔵館)において、平安中期における和讃の最初の誕生を「第一次生成」、親鸞による革新を「第二次生成」と呼び、親鸞が作った和讃の特徴について、次のように述べておられます。

平安中期につくり出された古和讃の浄土讃歌が長和讃であるのに対し、四句一章独立した短和讃としてそれぞれ独立性を保ちながら連続していくという手法は、非連続の連続性とも考えられる。もちろん、この形式が『梁塵秘抄』法文歌の形式を受けていることは当然ではあるが、新しい詩型の創造を試みた点に、わが国の仏教歌謡史上、画期的な意味を持つものである。

 なお、「長和讃」とは[七+五]が何句も多数連ねられたもの、「短和讃」とは、先に「今様形式」と呼んだ[七+五]×4という形のものです。

「浄土和讃」第一首 親鸞が書き残した和讃は、『三帖和讃』と総称される「浄土和讃」「高僧和讃」「正像末浄土和讃」を中心として、500首以上にのぼっています。
 ということで、実際に親鸞の和讃を見てみると、その元来の詩句の配置形態は、すべて[七+五]を1行ずつ分けて書き、1行目だけ1字上げて書き出される、というものです(右図)。
 親鸞のすべての和讃は、同様の形で表記されているのですが、しかしこれでは期待に反して、賢治の文語詩定稿の詩句配置とは、まったく異なっていますね。前回の記事で、私が勝手に「マトリックス型」と呼んだ彼の文語詩定稿の形式は、[七+五]が2つ縦に並べられて1行となり、それが2行で1組、さらにそれが2組あるいは数組並べられる、というものでした。

 その後、いろいろ調べてみてわかったのは、「マトリックス型」の形式で和讃の詩句が記されるのは、そのテキストを「注釈書」などにおいて引用する際の形であるということでした。
 以下に、明治時代に刊行された親鸞の和讃の注釈書において、和讃が引用されている箇所を例示してみます。リンク先は、国会図書館の「近代デジタルライブラリー」です。

 ここでは、ほとんどの引用は短和讃の「1首ずつ」ですので、[七+五]を縦に2つ並べたものが横に2行、本文の間に並んでいます。しかし、武石彰夫氏が上に述べておられるように、この1首ずつが、「それぞれ独立性を保ちながら連続していく」のが親鸞の和讃の特徴ですから、たとえば4首をまとめて引用すれば、前回の記事で例示したように、2行ずつが組になりつつ総計8行の詩句になるわけです。

 賢治の「文語詩稿 五十篇」および「文語詩稿 一百篇」に収められている作品の多くは、賢治の言う「双四聯」、すなわち「縦に2句×4行」で、上の表現にならえば短和讃が2首並んだ形です。次に、「〔月のほのほをかたむけて〕」のように8行(短和讃4首分)のもの、「〔翔けりゆく冬のフエノール〕」のように2行だけ(短和讃1首分)のものがあり、珍しい形としては、「〔たそがれ思量惑くして〕」のように6行(短和讃3首分)のもの、「〔沃度ノニホヒフルヒ来ス〕」のように16行(短和讃8首分)もあるものもあります。

 賢治は、ある詩稿用紙の裏に「文語詩双四聯に関する考察」と題したメモを残していて、その中には、「一、概説 文語定型詩、双四聯、沿革、今様、藤村、夜雨、白秋、」という一節があります。すなわち、文語詩の形式を考えるにあたって彼が「今様」を一つの参考にしたのは確実と思われますから、その型が、[七+五]×4という「今様形式」を基本単位としているのは、いわば当然のことと言えます。これだけならば、何も和讃の形式などを持ち出してくる必要はありません。
 私が、ここでことさら親鸞の和讃にこだわってみたのは、「今様」だけでは、賢治の文語詩の形式の成り立ちを理解するのに、不十分のように感じるからです。
 一つには、少なくとも『梁塵秘抄』に収められた「今様」は、すべてが[七+五]×4だけで完結していて、そこには賢治の文語詩のように、その2首分・3首分・4首分・8首分などが連ねられた形のものはありません。
 もう一つは、『梁塵秘抄』においては、[七+五]×4がすべて縦に1行に記されていて、賢治の文語詩定稿のような「マトリックス型」の配置は見られません。
 これに対して、「親鸞和讃の引用形」においては、上記の二点がちゃんと満たされているのです。

 賢治が、子供の頃から開いて見ていた父親の蔵書の中には、必ずや親鸞の和讃の注釈書があったはずです。そこで彼が目にしていた独特の詩句配置型が、最晩年になって、文語詩の形式の中にふたたび浮かび上がってきたのではないか・・・、そんなことを私は思うのです。

[この項まだつづく・・・?]