花巻~大迫~平泉(6)

 今日でお盆も終わり、いっしょに私の夏休みも終わりです。今日はまず一関のホテルで朝食をとったのですが、 本格的なスクランブルドエッグがなんとも美味しくて、かりっとしたトーストとともに、朝から幸せな気分にさせてくれました。このあと、 JRとタクシーに乗って、平泉の西の奥にある「達谷の窟(たっこくのいわや)」に向かいました。

 ここには右写真のような、岩窟にはめこまれた舞台造りのお堂があるので有名です。 寺伝によれば、 蝦夷のリーダー悪路王がこの場所で坂上田村麻呂に討たれて首を刎ねられ、それにちなんで田村麻呂は、 ここに毘沙門堂を勧請したのだといいます。賢治の「原体剣舞連」に、 「むかし達谷の悪路王・・・」と出てくるのは、この伝説を下敷きにしているのです。
 悪路王=アテルイと考えると、この地で彼が首を刎ねられたというのは史実に反しますが、 それでもこのような要害の地を蝦夷軍が根拠地の一つにしていたということは十分にありえますし、 そうならばアテルイも訪れていた可能性は大きいのではないでしょうか。

 以前にも書いたように、私は一時アテルイにはまっていたので今日ここを訪ねてみたのですが、 高橋克彦氏の著書以来の「アテルイ・ブーム」のおかげで、同じようにしてやってくる人はやはりけっこうあるようです。
 というのは、毘沙門堂の入口にはお寺の立てたごく一般的な説明板がまずあって、その隣にはもう一つ、「説明板の説明板」 とでもいうような余分なものが並んで立っています。本来の説明板の中で寺院当局が悪路王のことを、 「良民を苦しめ女子供を掠める等乱暴な振る舞い・・・」とか、「賊徒を率い・・・」 など完全な悪玉あつかいの表現をしているのに対して、文句を言いに来るアテルイ・シンパが跡を絶たなかったのでしょう、 問題の二番目の説明板は、次のような書き出しで始まります。
 「この頃達谷窟毘沙門堂の縁起が中央寄りであるとか、甚しきは書き換えるべきであると言う人が来る。 彼等は征夷大将軍坂上田村麿公は中央からの侵略者、悪路王こそそれに抗した英雄(いつから英雄になったか知らぬが)と看ておる。 そこでは当時のみちのくこそがこの世の楽土で蝦夷こそ我が祖先との考があり、悪路王は奪われる側で善、 大将軍は奪う者で悪という単純な区分がなされているが、これは可笑しい。・・・」
 そして、説明板は坂上田村麻呂がいかに誇るべき英雄であったかを縷々述べた後、ついには次のような口調になっていきます。「・・・ 如何なる批難を受けようとも縁起を書き改めるつもりはない。社寺にとって縁起とは思想ではなく信仰なのである。・・・」
 最後のところは、私も読んでいて「本当にその通り」という感じがして苦笑を禁じえませんでした。まことに社寺にとって「縁起」 とは自らのアイデンティティを吊り下げる一本の綱であって、それは思想や論理を超越していてもしょうがありません。 神仏分離を経て仏寺から神社に変わった祠の縁起などを読んでいると、まるで解離性健忘症にかかった人が自分の生活史を述べているようで、 なんとももどかしさを感じるものですが、それはそういうものとして、受容するしかないのですね。

 ところで「原体剣舞連」の中で、いったい賢治自身は、悪路王に対してどのような評価をしていたのでしょうか。中央の朝廷の視点から 「逆賊」と見ていたのか、それとも蝦夷の側からレジスタンスのリーダーと見ていたのでしょうか。
 ネット上でも読める中路正恒氏の論考「ひとつのいのち考」 は、剣舞と悪路王伝説の関連の有無についても考究して素晴らしいものだと思いますが、ただその中でこの「原体剣舞連」の筋立てを、 「<気圏の戦士>たちが悪路王をやっつける」としておられる部分だけは、私にはどうもしっくりこない感じがします。
 すなわち、「むかし達谷の・・・」の部分は、詩の冒頭の「こんや異装の・・・」と時制的に対をなし、 いわば劇中劇のように作品の中に現れるエピソードであって、<気圏の戦士>たちの剣舞そのものは、 悪路王をも鎮魂し慰霊するために舞われているのだと私には思えるのです。この詩に込められた「鎮魂」の思いについては、 中路氏も後の方で指摘しておられるところです。

 さて、ちょっと達谷に道草をしてしまいましたが、次には今回の旅行最後のスポットとして、中尊寺に向かいました。 中尊寺には4年前にも来ていたのですが、 この時は時間の都合で賢治の詩碑だけしか見られなかったのです。
 今回は、宝物庫である「讃衡蔵」をはじめゆっくりとまわることができて、古代奥州に出現していた夢のような仏教世界を堪能しました。 たとえば法華経に描かれている気の遠くなるような世界を具象化しようとすると、その一つの形としてはこういうものになるのでしょう。

 平泉駅への帰り道、「月見坂」を下りていると、北上川の対岸に束稲山の「大文字」 がきれいに見えました (右写真中央山頂近く)。この束稲山も、賢治の「経埋ムベキ山」の一つです。
 じつは、今日8月16日の夜は、この大の字に点火が行われる「大文字まつり」にあたっていたのですが、見ることができず残念です。
 また、高橋克彦氏の『火怨』の中では、アテルイの率いる蝦夷軍はこの束稲山に巧妙な砦を数多く築き、 10万で攻め寄せてきた朝廷軍を撃退したのでした。手前の平原も戦場となったことでしょう。

 一関から新幹線に乗り、さらに仙台から飛行機に乗って京都に着くと、午後7時でした。8時になると、京都でも「送り火」 が始まりました。下の写真は、自宅ベランダからビルの間を通してかろうじて斜めに見えている、今年の送り火の大文字が消えかけるところです。 今年の夏よさようなら。