たゝかひにやぶれし神(2)

 岩手県の地図を広げると、中央西寄りを北上川が南北に流れ、その両側に平野部が開けています。一括して「北上盆地」と呼ばれる領域ですね。
 県内の人口密集地の多くは、この平野部に連なっているのですが、おもしろいことに、川に沿った市や町のほとんどは、北上川の西岸にかたよっています。左右対称ではないのです。

北上川の東西 右の図のように、盛岡から一関までの間、北上川に面した市町のうちで主要部が東岸にあるのは盛岡市と江刺市だけで、あとはすべて西岸に街の中心があります。
 このようなことになっている理由は、たまたま西岸の方に、より農耕に適した平地が存在していたということなのでしょうが、それでもここまできれいに並んでいると、不思議な感じがします。

 そして、これらの街並みと川をはさんでちょうど相対するような形で、北上川の東岸には、平安時代にまでさかのぼる古寺群が並んでいるのです。
 水沢の黒石寺は、伝承では行基が創建したと言われますが、蝦夷征伐戦で焼失して坂上田村麻呂が再建したと伝えられています。江刺の智福毘沙門天像は、坂上田村麻呂その人の姿を模したものと伝えられています。
 また、9世紀中頃に創建された極楽寺は、準官寺としてこの地域の仏教文化の中心をなしていたと考えられていますが、その後失われ、もともとここにあった毘沙門像は、現在は少し北にある立花毘沙門堂に祀られています。
 賢治の「祭日〔二〕」に出てくる成島毘沙門天像は室町時代の作とされていますが、寺そのものはやはり坂上田村麻呂による創建という伝承を持っています。
 そして、賢治記念館のすぐ上にある胡四王神社も、807年に坂上田村麻呂が自分の兜の中に納めていた薬師如来像を祀ったのが最初の由来と伝えられており、江戸時代までは「胡四王寺」というお寺でした。

 このように、北上川東岸に古寺が分布している現象については、黒石寺の住職が直々に「北上川東岸の仏教文化と黒石寺」というページで解説しておられます。また、この問題について佐藤弘夫氏は、『霊場の思想』(吉川弘文館)において、次のように述べておられます。

・・・田村麻呂は硬軟両策を駆使して平定を進め、胆沢地方を完全に掌握してその地に胆沢城を築いた。延暦21年(802)のことである。田村麻呂は最終的には盛岡の北にまで進出を果たした。勧告に応じて降伏したアテルイは、田村麻呂の助命嘆願にもかかわらず京都で処刑されている。
 黒石寺は、対蝦夷戦争の最前線であった胆沢城を去ることわずか十数キロの距離にあった。しかも黒石寺が創建されたという平安時代の初期は、まだ戦火の余燼のくすぶる時期だったのである。
 黒石寺をはじめとする仏像群は、中央政府の支配の最前線に沿って建立された朝敵降伏のシンボルだった。それはまた、蝦夷の抵抗の根拠地であった北上川東岸地域に深く打ち込まれた文化的なくさびだった。矛を手にし、仏敵を砕破すべく四周を見渡す毘沙門天像の鋭いまなざしは、同時に朝廷にあだなす蝦夷にも向けられたものだったのである。(強調は引用者)

 すなわち、ある時期まで「北上川より東側」は、「蝦夷」の世界を象徴するものだったのです。789年「巣伏村の戦い」において、官軍が北上川西岸の駐屯地から東岸へ渡河しようとした時、アテルイの奇襲によって壊滅的な打撃を受けた記憶は、その後も征服者たちの脳裏に残っていたのでしょうか。
 また、このような歴史を考えると、冒頭に述べたように川の西岸に農耕的な「ヤマト」文化が定着していったのも、たんなる偶然ではないような気もしてくるのです。

 ということで、私のイメージの中では、北上川の東に連なる山地と準平原は、上記の戦争における「たゝかひにやぶれし神」を追悼する場所としてふさわしく感じられ、これが「〔水と濃きなだれの風や〕」に対する個人的な思い入れにつながる、というお話でした。


 ところで「北上川の東と西」ということに関して言えば、『春と修羅』の舞台は、花巻の町、岩手山、小岩井農場、松倉山など、北上川の西側の世界が多く目につくのに対して、「春と修羅 第二集」では、種山ヶ原、五輪峠、早池峰山、三陸、岩根橋など、「川の東側」の世界が増えてくるということを、どなたかが指摘しておられたように思います。