しばらく個人的な都合のために更新ができませんでしたが、世情寒々しいこの師走の日々、皆さまお変わりなくお過ごしでしょうか。
今日、久しぶりに家でテレビを見たのですが、12月4日に放送されたのを録画していた「イーハトーブ幻想~宮沢賢治・音楽への旅~」を再生してみました。「NHKアーカイブズ」と題して昔の番組を再放送しているシリーズで、もとの番組は1992年に制作されたものです。
私は、当時は見ていなかったので初めての視聴でした。チェリストの倉田澄子さんがチェロをかかえて案内役となり、賢治のもと教え子の長坂(川村)俊雄さんや照井謹二郎さんらを訪ねて話を聴き、また佐藤泰平さんによる賢治歌曲の解説、こんにゃく座による「飢餓陣営」の野外上演、「鶏の黒尾を頭巾にかざ」った原体の稚児剣舞の様子など、とても盛り沢山な内容でした。ほんとうに貴重な映像がいっぱいで、再放送してくれたNHKにも感謝です。
番組の構成は、倉田澄子さんによる「精神歌」のチェロ独奏(右写真)に始まり、花巻農業高校の卒業式における生徒たちの「精神歌」の合唱に終わるという形になっていて、さしずめこの歌が、全編を貫いています。小さくて見にくいのですが、右の画面中央には、賢治がうつむいて立つ例の写真の姿があります。実際に田んぼの中に、このような大道具をこしらえてあるようですね。
またできたら近いうちに、「精神歌」について最近感じたことを書いてみたいと思います。
北山克子
更新されていなかったので、きっと忙しくしていらっしゃるのだろうと思っていました。(余計な心配ですね。)
フィレンツエは、クリスマスのライトアップで街じゅうの小さな道までが豆電球を張り渡して、ナターレに向かって一直線です。
持ってきたDVDの中に千と千尋の神隠しがあったのですが、見ながら宮沢賢治からの影響を感じました。
父と母が豚になるところは山猫のレストラン、魔女の姉を訪ねていく電車のシーンは銀河鉄道を
この間、タルコフスキーのノスタルジーの舞台になった
バンニョデヴィゾーニョとサンガルガーノの修道院廃墟後を見に行きました。
レンタカーを借りて、トスカナの田舎道を走ったのですが、久しぶりに晴れたトスカナの平原は冬色に美しく、夕日が燃えて落ちていく様子をお見せしたかったです。
街のライトアップの様子も夕日も写真に取ったのですが、このメールに添付する方法が分からなくて、残念です。
どうぞお体に気おつけて毎日をお過ごしください。
山本雄治
宮沢賢治の一節ですが、「すべてがわたくしの中のみんなであように、みんなおのおののなかのすべてですから」の詩なんですけれど、題名を教えて下さい
hamagaki
山本雄治さま、こんにちは。ご訪問いただいてありがとうございます。
お問い合わせの文ですが、『春と修羅』の「序」の中の一節ですね。
この「序」において賢治は、自らの「心象スケッチ」の方法論的意味について、独自の説明を行っているわけですが、たとえば「般若心経」で「色即是空」と言われたり、「華厳経」で「三界唯一心」と言われるように、仏教ではこの世界はすべてが「空」であり、心に写る映像にすぎない、と考えますよね。しかしまた同時に、「因果」とか「因縁」というように、すべての現象はことごとく相互に関連しあっている、ということも強調されますね。
賢治は、すべてが「空」で「こゝろのひとつの風物」にすぎないのならば、逆におのれの「心象」を精密に「スケッチ」すれば、「たしかに記録されたこれらのけしき」は、それ自体がそのままで、相互に関連しあった宇宙全体を記述したものになるはずだ、そしてその客観的な記録は、地質学的時間の経過の中では過去の遺物となっていくかもしれないが、それでも貴重な化石のような意義は持ちつづけるはずだ、というようなことが言いたいのではないかと思います。
(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに/みんなのおのおののなかのすべてですから)という一節は、心的現象が個別のものであるようでいて、じつは一切が通底してつながっているという「共有性」、あるいは現象学的な言葉で言えば「間主観性」というものについて、述べているのではないかと思います。
1918年6月の保阪嘉内あて書簡[76]で、「実に一切は絶対であり無我であり、空であり無常でありませうが然もその中には数知らぬ流転の衆生を抱含するのです」と書いているのと同じようなことが言いたいのではないでしょうか。
ちょっとわかりにくい説明になってしまって申しわけありませんが、今後ともよろしくお願い申し上げます。