「精神歌」の歌詞について

 賢治が農学校に赴任してまもなく作詞した「精神歌」の歌詞は、下記の通りです。

(一)日ハ君臨シ カガヤキハ
   白金ノアメ ソソギタリ
   ワレラハ黒キ ツチニ俯シ
   マコトノクサノ タネマケリ

(二)日ハ君臨シ 穹窿ニ
   ミナギリワタス 青ビカリ
   ヒカリノアセヲ 感ズレバ
   気圏ノキハミ 隈モナシ

(三)日ハ君臨シ 玻璃ノマド
   清澄ニシテ 寂カナリ
   サアレマコトヲ 索メテハ
   白堊ノ霧モ アビヌベシ

(四)日ハ君臨シ カガヤキノ
   太陽系ハ マヒルナリ
   ケハシキタビノ ナカニシテ
   ワレラヒカリノ ミチヲフム

 ほんとうに彼らしい独特のテンションを帯びた詩だと思いますが、その一連一連は、まるで映画のシーンが切り替わるように移っていきます。一番でカメラは生徒たちが種を播いている情景を俯瞰的にとらえ、二番では逆に下から大空を仰ぎ、三番で映像は農学校の教室の中に入り、そして四番でカメラは一気にパンして、空間的には太陽系全体を、時間的には生徒たちの一生に相当する時間を収めます。

農学校跡の木塔 ところで、賢治がこの歌詞の一番で、太陽の輝きを「白金の雨」に喩えているのは、詩的表現として了解できることですが、生徒たちが播いているのを「草の種」と記しているのは、やや奇妙な感じがします。農学校の実習で種を播くのなら、穀類か野菜なのではないかと思うのですが、なぜ「草」なのでしょうか。
 これに関して私は、最近ふとしたきっかけで、この部分は法華経の中の「薬草喩品第五」を下敷きにしているのではないかと思いました。

 「薬草喩品」では、仏がその教えをあまねくすべての人々に対して分け隔てなく説き聴かせるのだということを、「雨」が三千世界に平等に降り注ぐ様子に喩えて説明しています。雨の恵みを得て、雑草も灌木も大樹も、すべての植物は元気づけられ、成長し、花を咲かせ、実をつけます。
 しかし、同じ雨を受けても、それぞれの植物の育ち方が様々であるように、普遍的な仏の教えを聴いても、人によってその受けとめ方は様々です。ただちに「さとり」への契機とする人もあれば、その時は十分に理解できない人もあるでしょう。
 「薬草喩品」においては、このように仏の教え=雨に対する反応が異なっている事態を、人間界・天界の一般の衆生は「小の薬草」に、声聞・縁覚(小乗)の人々は「中の薬草」に、菩薩道を進む人は「上の薬草」に喩えて、さらに説明がつづけられます。

 この、「雨」と「薬草」との関係が、「精神歌」一番における、「白金ノアメ」と「マコトノクサ」の関係に対応していると思うのです。


 一方、歌詞の三番は、「教室で、真理を求めて学問をする際には、チョークの粉を浴びてしまうこともあるよ」ということを言っていて、四連の中ではユーモラスな息抜きのようになっています。これは、賢治が盛岡中学4年の時に作った下記の短歌を、おもしろく脚色したような感じですね(「歌碑でたどる賢治の青春」参照)。

さあれ吾はかのせまき野の白き家に
       白墨の粉にむせぶかなしみ。(209