札幌セミナー(2) ~「修学旅行復命書」を歩く~

 朝7時すぎに目覚ましで起きると、外は「遠くなだれる灰光」のような空でした。支度をして、おいしい牛乳とともに朝食をすませると、今日の集合場所である中島公園の「北海道立文学館」前にタクシーで向かいました。

北海道立文学館 8時45分に文学館前に着くと、すでに何人もの人が集まっていました。私が右のような写真を撮っていると、「賢治の事務所」の加倉井さんが声をかけてくれました。昨夜の懇親会では、ますむら・ひろし さんのギター演奏なども飛び出したとのこと、参加できなかったのが今さらながら残念です。
 また開会直前には、今日の案内役もつとめられる旭川の石本さんが、新著『宮沢賢治 イーハトーブ札幌駅』を贈呈してくださいました。出版予定ということは以前からお聞きしていましたが、ちゃんと本屋さんでお金を払って買うべきところ、著者じきじきにいただいて、本当に恐縮です。
 この本については、また後日ここでじっくりとご紹介したいと思います。

 さて定刻の9時になり、穂別の斉藤征義さんのご挨拶で、今日の企画「賢治『修学旅行復命書』を歩く」が始まりました。これは、賢治が1924年に花巻農学校の修学旅行として、生徒を引率して北海道に来た際の、札幌における足跡をたどろうという試みです。「修学旅行復命書」というのは、花巻に帰ってから賢治が学校に提出した報告書のことですが、非常に真面目な堅苦しい文体をとっていながら、各所に詩的な表現や独創的な発想が記され、まさに賢治にしか書けないような風変わりな報告書となって中島公園を歩くいるものです。
 斉藤さんのお話に続き、石本さんから参加者にこの「復命書」のコピーと、貴重な古い写真もふんだんに入った特製のレジュメを配っていただき、今日の遠足のスタートです。
 30数人の私たち一行は、まず中島公園内を列になって進みました。

 賢治たちが訪れた頃の中島公園は、1918年にこの場所をメイン会場として開かれた「北海道博覧会」からまだ日も浅く、現在見るよりもハイカラなさまざまな建物でにぎわっていたようです。
 私たちが最初に目ざした「野外音楽堂」もその一つで、現在はその面影も残っていませんが、農学校の生徒たちはこの円い瀟洒な建物に立ち、何かの歌を唄ったことが記されています。「公園音楽堂にて歌唱す。旅情甚切なり」と、賢治も感激しています。
 当時の彼らをしのんで、菖蒲池のかたわらの音楽堂が建っていたとおぼしき場所に私たちも立ち、みんなで「精神歌」を歌いました。

公園内の小憩

 中島公園内の菖蒲池では、農学校の生徒たち一行はボート漕ぎに興じたことがやはり「復命書」に記されています。「生徒たちみな初菖蒲池のボートめてオールを把れるもの、当初各艇みな蛇行す」とありますが、楽しそうな様子が伝わってきます。右写真のように、現在も菖蒲池にはボートがたくさん備えられていて、休日などは、池はたくさんの市民でにぎわうそうです。

 このボートたちを横目で見て通りすぎ、私たちは公園の正面入口に向かいました。ここからは貸切バスで、さらに市内をめぐります。

 みんなでバスに乗り込むと、まずは大通公園の一角にある「開拓紀念碑」を目ざしました。ここは石本さんが、賢治のあの名作「札幌市」(「春と修羅 第三集」)に描かれた「開拓紀念の楡の広場」であろうと推定しておられる場所なのです。
 西開拓紀念碑6丁目でバスを降りて少し歩くと、目の前に「開拓紀念碑」が現れました。ビル街を背景に高くそびえる堂々とした碑で、石碑フリークの私としては思わず血が騒ぎます。

 この広場が「札幌市」という作品の舞台であるということは、まだ「定説」となっているわけではないようなのですが、(1)その「下書稿(三)」の初期形態には、「開拓紀念の石碑の下に」とはっきり書かれており、市内で他には同様の石碑はないこと、(2)通常は「念」と表記するのが一般的なところ、賢治は「開拓念」と書いており、これもこの石碑の表記と一致すること等、もはや石本さんの推定の正しさに、疑いの余地はないだろうと思います。


 私はこの「札幌市」という作品が高校生の頃から大好きで、これを読むたびに、当時はまだ行ってみたこともなかった北の街の風景を、あれこれと想像したものでした。そして今日ついに、その想像の景色が現実に眼前のものとなったわけです。
 案内役の石本さんご自身も、この広場の訪問が「本日のメインイベント」と称しておられましたが、私にとっても忘れられない場所となりそうです。この広場の一角に、賢治の「札幌市」の詩碑が建っていたらいいのに・・・、などということも考えていました。

 なごり惜しく広場を後にすると、次には北海道大学のキャンパスに向かいます。途中では、賢治たちが宿泊した旅館「山形屋」が建っていたという場所(北2条西4丁目)も、一瞬ながら車窓から目にすることができました。

佐藤昌介胸像 賢治たち農学校の一行が北海道帝国大学を訪れた時、当時の総長の佐藤昌介(右写真)は、予定されていた旅行の出発をわざわざ延期して修学旅行生を迎え、訓辞をしてくれたということです。これは、佐藤総長が花巻出身であったという縁によるもので、みんなきっと感激したことでしょう。北大総長の訓辞を受けて、農学校側からは、賢治が代表して答辞を述べました。
 そのあと、彼らの一行は「菓子牛乳の饗」を受け、総長の勧めに応じて生徒たちは、牛乳を各人1リットル以上も飲んだと「復命書」に記されています。当時も、北海道の牛乳は最高の美味しさだったのでしょうね。

 北大のキャンパスは、たくさんの木立と芝の緑が美しく、ちょっと他の大学には見られないような環境でした。大学構内を流れる小川に、昔は鮭が遡上してきていたという石本さんのお話も、驚きです。
 私たちはさらにクラーク像や、賢治も見たかもしれない「古河記念講堂」を眺めて、大学の門を出ました。

 続いて私たちはまたサッポロファクトリーバスに乗り、札幌麦酒会社が昔あった場所にできている「サッポロファクトリー」というショッピングセンターを目ざしました。
 1876年に、この場所で日本で最初のビール製造が始まって以来の、「開拓使麦酒醸造所」の総レンガ造りの建物は見事に保存され、「大正四年六月」と刻まれた巨大な黒い鉄の煙突もそびえています(左写真)。きっと賢治たちも、その偉容には目を奪われたことでしょう。
 ここの瓶詰工場の近代的な装備を見学した時に一同が驚嘆したことは、「復命書」に記されています。ここで賢治は、このような工業に負けずに自分たちの農業も、進歩さえ成し遂げられれば「将来の福祉極まり無からん」と、未来に託する希望を述べています。

 上の「宮沢賢治札幌セミナー」貸切バス「煙突広場」で少し休憩をとった後、私たちはまたバスに乗って、最後の目的地である北大附属植物園に向かいました。
 途中、観光名所の「札幌時計台」の前を通り、また美しい街路樹の続く様子を眺めていましたが、バスガイドさんの説明によれば、去年の台風18号の際に札幌の多くの街路樹が倒木の被害に遭ったのは、市内の道路が広く直線的で、道を吹く風を遮る物がないからだ、ということです。そう言えば、賢治も駅前旅館から植物園に向かう途中、「その街路の広くして規則正しきと、余りに延長真直に過ぎて風に依って塵砂の集る多き等を観察す」と記しています。さすがの観察眼ですね。

 植物北大植物園園でバスを降りて門を入ると、これこそまさに賢治が「復命書」に、「園内に入れば美しく刈られたる苹果青の芝生に黒緑正円錐の独乙唐檜並列せり。下に学生士女三々五々読書談話等せり。歓喜声を発する生徒あり」と記した場所ではないかと思えるような、美しい草地が広がっていました(左写真)。やはりドイツトウヒも何本か立っています。
 私たちは、この場所で石本さんから最後の説明を聴いて、今日の盛りだくさんの「遠足」を終わりました。
 参加者の皆は、しばし草地の上にとどまって、まだなごり惜しくいろいろ話をつづけていましたが、それぞれ次の予定に合わせて、三々五々去っていきました。

 今回は、石本さんや斉藤さんの周到な計画のおかげで、半日足らずのうちに、札幌市内の各所に残る賢治の痕跡を訪ね歩くことができました。お二人に、心から感謝申し上げます。
 また今回は、いろいろな方から当サイトに関してお声をかけていただき、とりわけ「歌曲の部屋~着メロ篇~」をご愛用いただいていると複数の方から言っていただいたのが、励みになりました。昨夜の懇親会で、着メロが話題になっていたのだそうです。あと、賢治童話の絵本に関する質問もいただいたのですが、これは宿題として持ち帰ります。

 みんなと別れて後、私は札幌駅まで歩いて、大丸の地下などで土産物を買い、駅ビルの6階にある「花まる」という回転寿司のお店で遅めの昼食をとりました。回転寿司といっても、さすが北海道だけあって、時鮭や生サンマ、あぶりサバなどなかなかの美味しさでした。

 その後、ちょうど札幌駅裏の広場で、石本さんにいただいた『宮沢賢治 イーハトーブ札幌駅』をしばらく読みました。4時近くなった頃、千歳線に乗って空港へ向かいました。
 空港では、搭乗予定だったJALの便に「要整備箇所が見つかったためいつ飛べるかわからない」と言われたので、少し後のANAの便に変更し、7時半頃に無事に伊丹に着きました。札幌では、地元の人が「昨日も今日も蒸し暑い」としゃべっているのを耳にしていましたが、やはり大阪・京都の暑さとは比べものになりません。

 京都に着くと、「万両」でおでんを食べて、お土産の「オホーツクの塩」を店主に渡し、歩いて家に帰りました。

万両