花巻(3)

 昨夜はホテルの部屋からうまくネットにつながらず、結局ブログの更新のために、 パソコンをホテル近くの公衆電話まで持ち出したりしていました。すると、更新中にその公衆電話に入れる硬貨が足りなくなるので、 お釣りが目的で近くの自動販売機で飲み物を買ったり・・・、ということで、昨日アップされていた文章を書いた後にも、 いろいろと苦労もあったのです。そのあとでまた続きの読書をしていたので、寝るのがだいぶ遅くなってしまいました。
 で、何が言いたいのかというと、今朝はかなり寝坊をしてしまって、「朝食はどうなさいますか」 とフロントから部屋に電話がかかってきました。カーテンを開けるともう日は高くなっていましたが、まあお休みの日ですから、 これも一つの過ごし方かと思っておきます。

「セロ弾きのゴーシュ」碑 チェックアウトをすませると、新花巻駅前の「セロ弾きのゴーシュ」 の碑のところへ行きました。この碑は、人が近づくと自動的に「星めぐりの歌」と「トロイメライ」 のチェロ演奏が鳴るようになっており、石碑のページでこれも聴けるようにするため、ICレコーダにこの音楽を録音しました。 これは近日中に公開したいと思いますので、少しお待ち下さい。

 この後の行動については、いくつか案はあったのですが、結局お隣の北上市にある「鬼の館」という博物館に行ってみることにしました。 「剣舞」のお囃子が、どうしても聴きたかったからです。
 北上駅からタクシーに乗ってずうっと西へ、「岩崎鬼剣舞」で有名な岩崎地区に向かうと、目の前には駒ヶ岳や焼石岳の連峰が、 雪をかぶってならんでいました。

北上市立「鬼の館」 「鬼の館」(左写真)は、5月5日ということで子供は無料という企画になっていたため、 家族連れの人々でいっぱいです。ホールに据えられたテレビでは、鬼剣舞のビデオが流されていますが、 さすがにこのあたりで生まれ育った子供たちは、剣舞のお囃子に合わせて足を踏み鳴らしたり、お父さんが「もう行こう」と言っても 「もうちょっと」と言ってずっと踊りに見とれていたり、しっかりと風土を受け継いでいる感じです。
 このビデオの前に私もしばらく座って、笛と鉦と太鼓によるお囃子のいろいろなパターンを、またICレコーダに録音しました。賢治の歌曲 「剣舞の歌」を、こんな響きと融合させて編曲できたら素晴らしいと思いました。

 館をあとにすると、また花巻に戻って、お昼はマルカンデパートの大食堂でカレーを食べました。予想されたことですが、 ここもやはり家族連れでいっぱいです。
 あと飛行機までしばらくの時間があきましたが、羅須地人協会跡の賢治詩碑前で過ごすことにしました。

 詩碑前の広場に着いた時には、ロード用の自転車を停めた若者が一人いただけで、すぐに誰もいなくなりました。 広場の北東の角のベンチに腰かけて、またおとといからの読みかけの本の続きです。途中、観光バスの団体が2度、 にぎやかに訪れては去っていきました。

 今日は曇っていましたが、早池峰山は花巻市内からも比較的よく見えました。この広場から望むと、ちょうど旧天王山の奥にそびえているのですね。 前回来たときにはほとんど雲に隠れていたので、今日はじめて位置関係をはっきり把握しました。
早池峰山系

 それから傾いた木塔、広場の南東の隅に立っている「われらに要るものは銀河を包む透明な意志巨きな力と熱である」 という木塔のことですが、 以前から少しずつ傾いているような気はしていたものの、今日見ると、右写真のようにかなり斜めになってしまっています。 根もとのあたりを見ても、急に動いた形跡はなさそうなのですが、このままだと何となく倒れてしまいそうで、 どうにかして対策をとってほしいものです。

 3時になったので、なごり惜しいですが広場を後にして、また花巻駅に戻り、空港に向かいました。
 飛行機の中でも、またモノレールと阪急電車の中でも、村上龍の続きです。

 阪急電車を降りる時点で、小説はまだ100ページほど残っていたので、家に着いてから夕食をとり、 それから残りをやっと読み終わったので、今このブログを書いています。

 村上龍の「半島を出よ」は、とても面白かったです。作者が意識して書いたのかどうかはわかりませんが、これは二重の意味で、「解離」 という心のメカニズムに深く関わった小説だと感じました。しかしこれは、宮澤賢治とはまた別の話です。

                    ◇         ◇

 「解離」というのは、人間があまりにも強いストレスなどにさらされた時に、自らの精神活動の一部を他から切り離して、 自分の心のバランスを何とかして保とうとする機制のことです。極端にショックな出来事に遭遇すると、 後からその細かい記憶を思い出せなくなったりするというのもその一つの現れですし、最も重篤な場合には多重人格と呼ばれる症状にも至ります。

村上龍「半島を出よ」 「半島を出よ」の構成において「解離的」なのは、一つは北朝鮮特殊部隊に福岡を急襲された時、 日本の政府は判断停止に陥り、とにかく中央への侵入を恐れて九州を「封鎖」してしまったところです。この切り離しによって、 結局は政府も九州以外の全国民も、事態をできるだけ意識の外に追いやって、考えたくないことは考えないようにしてしまいました。
 もう一つは、一方の主役として登場する少年たちの多くが被虐待の体験を持ち、記憶が途切れがちになったり、無感覚になったり、 現実感がなくなったりするなどの解離性症状を呈しているところです。小説に記述されている状態像は、‘複雑性PTSD’ とも言いうるものですが、物語の中で、またそれぞれの心の状態が変化していく様子が興味深いところです。

 これ以上の話はネタバレになるのでやめますが、これは全体の構成の大胆さとともに細部の造りも緻密で、 なかなか読みごたえのある小説でした。
 しかしこの3日間は私の心の中も、イーハトーブにいるのと、それと全く異なる小説世界の中にいるのと、 時間によってまるで解離しているようでした。