保阪嘉内の歌曲
宮澤賢治にとって、生涯で最高の親友だった保阪嘉内(1896-1937)も、多くの歌曲を残しました。ここでは、そのうちのいくつかを取り上げてみます。
もちろん彼は、賢治と同じく音楽に関してはまったくのアマチュアでしたが、さすがに歌詞は時に力強く、時に哀調を帯び、嘉内の文学的才能を感じさせます。自ら作曲したメロディーも、自然で歌いやすいものです。
多彩な分野に情熱を注いだ保阪嘉内という人を理解する上で、その歌曲も重要な一領域と言えるでしょう。
「藤井青年団々歌」と、「勿忘草の歌―保阪家家庭歌―」の2曲をお聴きください。
このような演奏を作成できたのは、保阪嘉内の歌曲の楽譜等をお送り下さった「保阪嘉内・宮沢賢治アザリアの会」の方々のおかげです。ご厚意に、心から感謝申し上げます。上の保阪嘉内の写真および「藤井青年団々歌」のノート画像は、韮崎市制55年記念誌『花園農村の理想をかかげて』(アザリア記念会発行)より引用させていただきました。
藤井青年団々歌
1919年(大正8年)9月1日付けの嘉内 のノートに、「藤井青年團々歌」と題された歌詞が書きとめられており(下写真)、この歌曲はおおよそこの頃に作られたものと思われます。
1918年(大正7年)3月に盛岡高等農林学校から除名処分を受けた嘉内は、いったんは札幌または駒場の農科大学を目ざして東京で受験勉強を開始 しますが、さらに6月には、母の死という度重なる不幸に見舞われます。故郷に残された弟妹、家の田畑のことをことを思うと勉強にも身が入らず、結局受験はあきらめて、故郷に帰って農業に打ち込む決心を固めました。
帰郷した嘉内は、村の青年団の活動にも熱心に取り組みました。1919年(大正8年)夏には、 文部省所管の青年団中央部が行う「青年団指導者講習」の受講者として山梨県から一人だけ選ばれ、東京で講習を受けています。保阪家には、「大正八年八月十七日」付けの修了証書が残されているそうです(大明敦編著『心友 宮沢賢治と保阪嘉内』より)。
その受講を終えて帰郷してまもなく、嘉内は上のノートに「藤井青年團々歌」を書いたのでしょうか。歌詞には、青年たち の前途へ向けた希望と理想が謳われています。
賢治が、嘉内のこの「藤井青年団々歌」を知っていたのかどうかはわかりません。1919年夏以降に二人が会ったことが確かなのは、1921年(大正10年)7月の、東京におけるあの最後の面会の時だけです。しかし歌詞だけなら、嘉内が賢治に書き送っていた可能性も否定できません。
というようなことを考えたくなるのは、若者たちの一体感の拠り所となり希望を高らかに掲げるこの「団歌」の趣旨は、後に賢治が農学校生徒のために作った「花巻農学校精神歌」や「黎明行進歌」などの歌の心と、まさに共通したものだからです。
またこの歌は、二番と四番の歌詞の終りに出てくる「我健児」が、「わがケンジ」とも聴けるということも、時に話題となります。
さて、下記演奏の編曲においては、歌詞一番の4行目に「牧の角笛なり渡る」とあることから、曲の前奏は遠くのホルン三重奏で始めてみました。嘉内の故郷・駒井村は、日本「南アルプス」の麓にありますが、彼がここに「角笛」を登場させたことの背景には、ヨーロッパ・アルプスの「アルペン・ホルン」への連想があったかもしれません。この一番の歌詞は農村の朝を描いていることから、冒頭の響きも夜明けをイメージしたものです。
歌詞の三番は、歴史をはるかさかのぼり、戦国時代も終わり頃、旧駒井村の西に武田勝頼が築いた新府城と、ここを最後に滅亡した甲斐武田一族の悲劇を唄ったものです。「夏艸」や「夢」という語は、松尾芭蕉の「夏草や兵(つはもの)どもが夢の跡」を下敷きにしていますが、この句が奥州平泉におい て詠まれたことにおいて、はからずも山梨と岩手の不思議なつながりが生まれています。伴奏の背景には、「戦」を象徴する軍楽ラッパを 響かせてみました。
四部合唱の歌声は、ソプラノが VOCALOID2 の初音ミク、アルトが同じく巡音ルカ、テナーとバスが初代 VOCALOID の Kaito です。
この歌の歌詞はいくつかのヴァージョンがあるようですが、ここでは上記画像にもある嘉内のノートに記載されているテキストを用いました。
演奏
歌詞
藤井青年團々歌
理想の光麗らかに
エデンの園の朝ぼらけ
輝き昇る天津陽に
牧の角笛なり渡る
若き心の感激に
溷濁の世の濤を伏せ
魍魎羅刹もひしがんと
つどひ立ちたり我健児
緋の鎧して益荒雄が
忠血義血流しけん
新府城趾の夏艸は
昔の夢にむせぶらん
紫薫る不盡の峯
赤き血潮は高鳴るを
蒼穹久遠の彼方まで
つどひ進みね我健児
勿忘草の歌 ―保阪家家庭歌―
この歌曲は、嘉内がよく家族とともに唄っていたということで「保阪家家庭歌」と呼ばれていたのを、最近になって嘉内の次男・保阪庸夫氏が、「勿忘草の歌」と名づけられたものだということです。
この歌が賢治ファンににとってとりわけ印象的なのは、冒頭の「捕らよとすればその手から小鳥は空へ飛んで行く」という詞句(「習作」参照)にも表れているように、嘉内が作った歌曲の中でも、賢治とのつながりを最も深く漂わせていることにあります。さらに、歌詞の二番にある「仕合わせ求め行く道にはぐれし友よ今何処(いずこ)」という一節などからも、この「友」とは賢治、あるいは他の「アザリア」の仲間など盛岡高等農林学校の旧友のことではないかと、どうしても考えてみたくなります。
嘉内が故郷で昔の友を思いながら、「君(たち)のことをいつまでも忘れない」という気持ちを込めて家族とともに唄っていた歌、それがこの「勿忘草の歌」なのではないかとの感が漂います。
歌詞の一番、二番が、とりわけ賢治や古い友人たちとのつながりを感じさせる部分で、「捕らよとすればその手から・・・」という北原白秋作詞「恋の鳥」からの修飾引用以外は、嘉内の作詞なのでしょう。これに対して三番は、上田敏の訳詩集『海潮音』(1905年刊)に、ウィル ヘルム・アレント作「わすれなぐさ」として収録されているものです。
このように由来の異なる一・二番と三番をつなぐ役割を果たしているのが、二番と三番の双方に出てくる「み空」という言葉です。一番では、「小鳥は空へ」となっている部分が、二番では「鳥はみ空へ」となっていて、これは嘉内が歌詞全体を一体化するために、二番においては意識的に変えたのではないかと思います。
ご参考までに、アレントの原詩を、下に掲げておきます。
Vergismeinnicht
Ein Blumchen steht am Strom
Blau wie des Himmels Dom
Und jede Welle kust es
Und jede auch vergist es
さて下記の演奏は、2009年10月11日に韮崎市で行われた「銀河の誓い in 韮崎・アザリアの友人たち」の催しの際に「韮崎市民合唱団」が唄われたと同じ二部合唱の旋律に、簡単なピアノ伴奏を付けてみました。歌声は、ソプラノが VOCALOID の Meiko、アルトが VOCALOID2 の初音ミク、伴奏ピアノは Vienna Instruments の ベーゼンドルファー・インペリアルです。
三番の訳詞冒頭に出てくる「流れ」は、アレントの原詩では‘Strom’、すなわち「大河」です。この歌が盛岡高等農林学校の思い出と関係しているとすれば、こ の「大河」とは、北上川を連想させずにはおきません。
三番の部分のピアノ伴奏にアルペジオを連ねたのは、はずかしながら私なりに北上川の流れに思いをはせたものです。
上にも触れた「み空」は、アレントの原詩では‘Himmels Dom’すなわち「天のドーム」で、これはまた賢治が「空」を表現するために好んだ言葉「穹窿」に相当しますね。
演奏
歌詞
― 保阪家家庭歌 ―
仕合わせ
抱かんとすれば我が
仕合わせ求め行く道に はぐれし友よ今
流れの岸の
波