「これらは素樸なアイヌ風の木柵であります」詩碑
1.テキスト
これらは素樸なアイヌ風の木柵であります
詩ノート 一〇六三より
これらは素樸なアイヌ風の木柵であります
えゝ
家の前の桑の木を
Yの字に仕立てて見たのでありますが
それでも家計は立たなかったのです
四月は
苗代の水が黒くて
くらい空気の小さな渦が
毎日つぶつぶそらから降って
そこを烏が
があがあ啼いて通ったのであります
どういふものでございませうか
斯ういふ角だった石ころだらけの
いっぱいにすぎなやよもぎの生えてしまった畑を
子供を生みながらまた前の子供のぼろ着物を綴り合せながら
また炊爨と村の義理首尾とをしながら
一家のあらゆる不満や慾望を負ひながら
わづかに粗渋な食と年中六時間の睡りをとりながら
これらの黒いかつぎした女の人たちが耕すのであります
この人たちはまた
ちゃうど二円代の肥料のかはりに
あんな笹山を一反歩ほど切りひらくのであります
そして
ここでは蕎麦が二斗まいて四斗とれます
この人たちはいったい
牢獄につながれたたくさんの革命家や
不遇に了へた多くの芸術家
これら近代的な英雄たちに
果して比肩し得ぬものでございませうか
宮澤賢治
2.出典
「〔これらは素樸なアイヌ風の木柵であります〕」(「詩ノート」)全文
3.建立/除幕日
2006年(平成18年)7月 建立
4.所在地
一関市東山町松川字滝ノ沢149-1 「石と賢治のミュージアム」横
5.碑について
岩手県南部の東山町は、晩年の賢治が技師として尽力した「東北砕石工場」があった場所として、これまでもさまざまな賢治と関連した企画に取り組んでいます。2006年に合併して一関市の一部となってからも、賢治生誕110周年を記念して、同年7月にこの詩碑が建立されました。
東山町内の賢治碑としては、「農民芸術概論綱要」碑、「あらたなるよきみち」詩碑につづいて、これが3つめということになります。
建立者である花巻市在住の宮澤雅隆氏は、「宮澤
詩の内容は、厳しい自然環境と社会的境遇に耐え、たくましく働く農家のおかみさんへの、「賛歌」というべきものです。
おごそかな筆致で彼女たちの日々の行いが描かれ敬われ、そして最後には「牢獄につながれたたくさんの革命家や 不遇に了へた多くの芸術家」とともに、「英雄」と讃えられます。ここで急に「革命家」が登場するところは、この時期の賢治が労農党のシンパとなり、作品としても「〔サキノハカという黒い花といっしょに〕」、「政治家」、「生徒諸君に寄せる」など社会主義的傾向を感じさせるものを書いたりしていることと、どこかでつながっているのでしょう。
そのせいか、苛酷な生活に苦しむ女性たちを描写しても、それは「哀歌」や「慨嘆」に終わるのではなくて、何か雄渾さや希望を感じさせるものとなっています。中野重治の詩なども連想させます。
ところで、この作品で難しいのは、一行目に登場し、今回の詩碑テキスト選文の契機ともなった「素樸なアイヌ風の木柵」というのは、いったいどんなものなのか、ということです。
アイヌ民族の文化について少し調べてみましたが、一般の集落(アイヌコタン)においては、家族単位で暮らす住居(チセ)は、柵や垣根で囲まれてはいません(右写真は萱野茂著『アイヌ・暮らしの民具』より)。
また、アイヌは家畜を飼ったり牧畜をしたりもしませんので、その生活において境界や防壁としての「柵」というものを作ることは、あまりないようなのです。
私が詩碑を訪ねた時、「石と賢治のミュージアム」館長の伊藤良治さんが出てきて下さって、テキストの内容についてご親切に解説をして下さったのですが、伊藤さんのお考えでは、この「アイヌ風の木柵」というのは、熊送りの儀式である「イヨマンテ」において設けられる祭壇(ヌササン)のことではないか、ということです。
上の図は、「アイヌ民族博物館」刊行の『イヨマンテ―熊の霊送り―報告書』からの引用ですが、このようにヌササンにおいては、「イナウ」と呼ばれる木幣が一列にちょうど「柵」のように並べて立てられ、その中央には、イヨマンテで送られた仔熊の頭蓋骨(マレプト)を飾るための、「ユクサパオニ」と呼ばれるY字形の木が立てられます。
このY字形の木が、詩本文3・4行目の「家の前の桑の木を/ Yの字に仕立てて見た」というところに対応するわけですね。
そもそもイヨマンテとは、熊の魂を「神の国」に送ることによって、神がお返しに、アイヌに対して獲物などの豊穣な恵みを贈ってくれるよう祈願して行う儀式です。もちろん作品中に描かれた農家の人は、このような意図を持って桑の木をY字形にしたわけではなく、賢治が勝手にそう「見立てて」いるだけですが、「Yの字形の木を立てたのに家計が立たなかった」というところにアイロニーを見出している作品の趣旨は、イヨマンテの儀式の本来の目的に沿ったものです。
あと、賢治がアイヌの熊送り儀式のことを知っていただろうと思われる根拠の一つとして、童話「なめとこ山の熊」があります。この童話の最後で、熊に殺された小十郎の遺体を囲んで、月夜の晩に熊たちが環になってじっと祈るようにひれ伏す場面が出てきますが、これは言わば「熊による人送り」の儀式であって、アイヌが行っていた「人による熊送り」の儀式の裏返しになっているわけです。
「生きるためには他の生き物を殺さなければならない」という自然の現実について考え抜いた賢治は、古くからアイヌたちが、獲物を捕りながらも相手に対する畏敬の念を常に持ち、自然と「共に生きよう」としていたことに、特別な思い入れをしていたのではないかと思います。
朝もやの中のヌササン(『イヨマンテ―熊の霊送り―報告書』より)
私自身としては、「木柵」の正体について判断するだけの知識を持ち合わせていませんが、賢治は盛岡中学の修学旅行で1913年に北海道に行った時にも白老のアイヌ部落を見学し、また1924年に修学旅行の引率として再訪した際にもやはり白老を訪れていますから、いずれにしてもアイヌの文化についてかなり知った上で、「アイヌ風の木柵」と書いているのだろうと思います。
詩碑は、JR大船渡線の「陸中松川」駅を降りてすぐ右手、「石と賢治のミュージアム」からさらに線路に沿って少し進んだところにあります。
東北砕石工場の跡地にある詩碑ふさわしく、ごろごろとしたいくつもの大きな石灰岩によって、碑の台座や周囲は形づくられています。
「石と賢治のミュージアム」とトロッコ跡の道