「熊谷宿」歌碑



1.テキスト

 武蔵の国
熊谷宿に
 蠍座の
淡々ひかりぬ
  九月の二日

       賢治

  熊谷の
 蓮生坊が
たてし碑の
旅はるばると
  泪あふれ
   ぬ

       賢治

2.出典

書簡 22(保阪嘉内宛)

3.建立/除幕日

1997年(平成9年)9月2日 建立/除幕

4.所在地

埼玉県熊谷市仲町74 八木橋百貨店前

5.碑について

 1916年9月、賢治を含む盛岡高等農林学校二年生の一行23名は、地質学の関教授・神野助教授に引率されて、秩父地方の地質に関する調査・見学旅行をおこないました。
 この全行程を、萩原昌好氏の著書『宮澤賢治「修羅」への旅』における考証をもとにして再構成してみると、以下のようになります。

9/2 8月1日から30日まで、東京神田で「独逸語夏季講習会」を受講した賢治は、この日、帝室博物館を見た後、盛岡から来た一行と上野駅で合流した。
上野駅を11時20分発の列車に乗り、13時13分に熊谷駅に到着した。
熊谷寺を訪れ、「熊谷の蓮生坊」の歌を詠む。
宵闇のころ西空に沈もうとする蠍座を見て、「武蔵の国 熊谷宿に…」の歌を詠む。
旅館「松阪屋」(現在の八木橋百貨店近く)に宿泊。
9/3 熊谷から秩父鉄道で、寄居へ向かう。「立ヶ瀬断層」「象ヶ鼻」などを観察した。「毛虫焼く…」の歌を詠む。
次いで荒川に沿って、末野の石切り場、長瀞のポットホール、「虎岩」などを観察。「粋なもやうの博多帯」の歌を詠む。
夕方、「山峡の町の土蔵の…」の歌を詠む。
国神の旅館「梅乃屋」に宿泊。
9/4 早朝、霧の中を馬車3台に分乗して小鹿野に向かう。
いったん小鹿野の旅館「本陣寿旅館」に荷物を置いて、泉田にある地層の露頭「ようばけ」を観察。
夕暮れ頃、旅館への帰途で「秩父の峡のかへり道」の歌を詠む。同旅館に宿泊。
9/5 小鹿野から、途中馬車も利用して三峯山へ向かう。
おそらく贄川沿いに、地質および造植林帯を観察。
夜は三峯神社宿坊に宿泊。星月夜だが雷もあった。
9/6 三峯山を下り、影森の橋立鍾乳洞などを見学。
夜は、秩父大宮(現在の秩父市)の「角屋」に宿泊。
9/7 秩父大宮から本野上を経て、列車で上野に向かう。
上野駅23時00分発急行青森行きの夜行列車で、帰途につく。
9/8 12時59分盛岡着、解散。

 歌碑の表に刻まれている「武蔵の国 熊谷宿に…」の歌では、夜空に蠍座が淡々とひかっていたことが詠まれています。
 これに関しては、「賢治の事務所」の加倉井さんによる考察がありますが、それによると、9月2日に熊谷で蠍座が見られるのは、19時30分から20時30分ごろの間に比較的限定されるということです。加倉井さんのページには、賢治が見たであろう星空の画像も再現されていて、魅力的です。

 歌碑の裏面にある歌に出てくる「熊谷の蓮生坊」とは、源平争乱の頃の武将、熊谷次郎直実が出家してからの法名です。
 熊谷直実は、かつて源頼朝から「日本一の剛の者」と呼ばれ、平家との戦いにおいて数々の手柄をあげた武士でした。この間、1184年の「一ノ谷の合戦」においては、当時弱冠16才の平敦盛の首を取らざるをえなかったことに心を痛め、敦盛の父経盛に詫び状を書き、遺品の「青葉の笛」などを送ったというエピソードがあります。この話は「平家物語」を通じて有名になり、後に能や歌舞伎にもなりました。
 このような武勲にもかかわらず、争乱が終結して鎌倉幕府が開かれてからの直実は不遇の身となり、それまで戦いに明け暮れた人生に無常を感じて、出家して熊谷の地に草庵を結びました。そして草庵の脇には、少年敦盛の供養塔も建てたということです。
 これが、現在の熊谷寺のはじまりです。

 賢治が泪したという「蓮生坊がたてし碑」とは、この敦盛の供養塔なのだろうと推定されていますが、残念ながら現在は残っていません。

 この歌碑があるのは、賢治が宿泊したと推定されている旅館のあった場所ということですが、現在はりっぱな百貨店が建っています。
 その裏手あたり、街の喧騒からすこし奥まったところに、熊谷寺があります。


熊谷寺