「秩父の峡」歌碑
1.テキスト
この山は 小鹿野の町も 見へずして 太古の層に白 百合の咲く 保阪嘉内 |
さはやかに 半月かゝる 薄明の 秩父の峡のか へり道かな 宮沢賢治 |
2.出典
歌稿〔B〕 350
3.建立/除幕日
1997年(平成9年)3月 建立/8月28日 除幕
4.所在地
埼玉県秩父郡小鹿野町大字下小鹿野 おがの化石館脇 →地図表示
5.碑について
宮澤賢治が在籍した頃の盛岡高等農林学校では、二年生の秋に、埼玉県秩父地方へ地質学の研修旅行をおこなう慣例があったようです。1916年には賢治たちの学年が、翌1917年には一級下の保阪嘉内らの学年が、この小鹿野町を訪れています。
現在この場所には、二人がそれぞれ小鹿野町に滞在した時に詠んだ歌が、まるで二人の友情を象徴するかのように、仲よく肩を寄せて歌碑になっています。
碑の後ろに見えている崖は、地元の言葉で「ようばけ」と呼ばれる、地層の大露頭です。高さ100m、幅400mにわたって、見事な堆積層が観察できます。賢治たちがこの地を訪れた目的も、この地層を見学 して、付近で化石を採集するためだったのだろうと思います。
説明によると、この地層は「新生代第三紀」のものだそうで、その時代には、このあたりは海の底だったということです。
「新生代第三紀」と言えば思い出すのは、あの「イギリス海岸」の泥岩層です。賢治は、北上河畔のこの地層を、 やはり第三紀のものだろうと推定していました。さらに賢治は、その泥岩層から発見した化石をもとに、花巻のあたりもその頃は海だったと考えていたのです。
賢治が、北上川西岸の地質に注目しはじめたのが、はたしていつ頃からだったのかはわからないのですが、その時頭の片隅には、この埼玉県小鹿野町で見学した印象がよみがえったかもしれません。
現在、この地層の前には、「おがの化石館」という町立の施設が建っていて、この地で産した化石などが展示されています。「ようばけ」というのは、「夕陽」が当たる「はけ(崖)」という意味なのだそうです。
加倉井さんのサイト「賢治の事務所」には、賢治がこの短歌を詠んだ1916年9月4日の夜空にかんする考察が載っています。それによると、「半月かゝる薄明の」という言葉どおり、この晩は月齢6.7の半月だったということです。「ようばけ」を見学したあと、夕闇が迫るなかを宿に帰る道すがら作られた歌だろうと推定されています。
保阪嘉内の方の短歌も、「太古の層」という言葉でわかるように、ここの地層を詠んでいます。「小鹿野の町も見へずして」と歌われているのは、ここは町の中心部から4~5kmも東に離れ た、山かげにあるからです。
私もこの地を訪ねたあと、夕暮れの小鹿野の町へ向かい、その昔に賢治たちも泊まった旅館に入りました。
おがの化石館と「ようばけ」