旧「大東館」跡

 宮澤賢治の盛岡中学4年時(1912年)修学旅行の日程は、次のようなものでした。

  • 5月27日
    午前3時30分、盛岡発一関行き東北本線上り列車乗車。
    午前7時3分、一関下車。狐禅寺へ徒歩4km。
    狐禅寺の岸場から北上川汽船「岩手丸」乗船。
    約6時間半で石巻着。日和山に登り、賢治は生まれて初めて海を見た。
    渡波町にて製塩の見学。石巻泊。
  • 5月28日
    金華山へ向かう予定を強風のため変更し、10時に船で松島へ。
    瑞巌寺を見学し、再び船で塩竃へ。
    賢治はここで一行から離れ、菖蒲田で療養中の伯母・平賀ヤギを一人で見舞う。
    「大東館」で伯母と会い、ともに磯を歩く。その晩は大東館泊。
  • 5月29日
    人力車も利用して駅へ戻り、朝8時20分塩釜発の列車に乗り9時仙台着。
    助役や巡査に修学旅行一行の宿を尋ね、12時に旅館「堺屋」で合流。12時55分発列車で平泉へ向かい、中尊寺を見学。23時25分盛岡駅に帰り着く。

 中学4年修学旅行
賢治の修学旅行・一関以南のルート

 汽船で北上川を下るという行程も、当時ならではのものです。そして、それまで岩手県の花巻と盛岡という内陸しか知らなかった賢治は、石巻の日和山から、生まれて初めて「海」を見ました。

まぼろしとうつゝとわかずなみがしらきそひよせ来るわだつみを見き

 一行は、翌5月28日は、石巻港から船で松島へ向かいました。このあたり以降の旅の様子を、賢治は盛岡に戻った5月30日に、父あての手紙で報告しています(書簡4)。それは次のように始まります。

謹啓 昨夜夜十一時帰盛仕り候 今日は一日睡り只今この手紙を認め居るにて候 小遣は二円にて甚だ余り申し候 石の巻を出発仕りしは午前十時頃にて候へき 船は海に出で巨濤は幾度か甲板を洗ひ申し候 白く塗られし小き船はその度ごとに傾きて約三十分の後にはあちこちに嘔げる音聞こえ来り小生の胃も又健全ならず且つ初めての海にて候へしかばその一人に入り申し候 約一時間半にて松島に着浅黄色の曇れる日の海をはしけにて渡り瑞巌寺を見物致し小蒸気に乗りて塩釜に到り申し候 松島は小生の脳中に何等の印象をも与へ申さずわづかに残れるは雄島の赤き橋と瑞巌寺の古美術位の物にて候

 ということで、賢治は塩竃に着きました。15歳の少年が、父親に対して自分のことを「小生」と記しているのは、何となく微笑ましいですね。
 そして賢治はここで引率の先生の許可を得て、近くで療養していた伯母・平賀ヤギを見舞ったのです。

 賢治の父政次郎の姉ヤギは、一度結婚したものの1893年に離婚して、実家に戻っていました。賢治が生まれた1896年から、1902年に再婚するまでの間、彼の幼少期に同居することとなり、賢治を非常に可愛がったと言われています。浄土真宗を篤く信仰し、寝床の中で賢治に親鸞の「正信偈」や蓮如の「白骨の御文章」を子守歌のように繰り返し聞かせ、賢治が3歳にしてこれらを暗誦したというエピソードを育みました。また、賢治が粘土で作った仏像を、後年も大事に仏壇に安置して礼拝していたともいうことです(佐藤隆房『宮沢賢治』)。
 この優しい伯母ヤギは、1902年に平賀常松と再婚しますが、病気になり宮城県七ヶ浜村菖蒲田の旅館に、滞在して療養生活をしていたのです。
 この修学旅行ではちょうど近くまで行くので、賢治の胸の中には伯母を見舞おうという計画が、おそらく出発前からあったのでしょう。しかし、引率の先生に願い出たのは、塩竃に着いてからでした。そして「無理に先生の許可を得」て、一人で寂しい漁村へ向かって歩き出したのです。

塩釜にて無理に先生の許可を得その夜八時半迄に仙台に行く事を約して只一人黄き道を急ぎ申し候 曇れる空、夕暮、確かなる宛も無き一漁村に至る道、小生は淋しさに堪へ兼ね申し候 無意識に称名の起り申し候 肥れる漁夫鋭き目せる車夫等に出合ふ度に小生の顔を見つゝ冷笑する如き感を与へられ不快なる心もて塩釜より約一時間両び海を見黒き屋根の漁夫町を望み申し候 波の音は高く候へき。

 心細さのあまり無意識に「称名」(=南無阿弥陀仏)が口に出たのは、それを伯母ヤギが繰り返し教えてくれたからでもあるでしょう。
 淋しさと不安に怯えつつも、賢治は7kmほど離れた菖蒲田の集落に、何とかたどり着きました。

「この町に宿屋何軒ありや。」と聞けば六軒ありと答へられ一軒一軒を尋ねても伯母上を見んと思ひまづ渚より岩にかけられし木の階を登り大東館と書かれたる玄関の閉まれる戸幾度か叩き申し候へど答無ければ宿は他の方かと思ひて家を東の方にまはればこゝには戸無くランプの灯赤きに人二人居るが硝子越しに見え申し候 宿主の居る方を聞かんと存じ中をのぞき候ところ思ひきや伯母さまにて候へき 今一人は下女にて候へき

 「一軒一軒を尋ねても」という強い覚悟で漁村をまわろうとした賢治は、幸運にも一軒目で、懐かしい伯母の顔を発見します。
 感動的な再会と、二人で語り合う場面が続きます。

不思議さうなる顔して小生を見居りしが甚だ喜ばれし面もちにてしきりに迎へられ遂にその夜の九時の塩釜発の汽車にて仙台に行く事とし夕食をごちそうに相成りあちこちよりの手紙を見せられ申し候、伯母さまは幾度もおぢいさんや父上母上のお心に泣きたりと申され候、海は次第に暗くなり潮の香は烈しく漁村の夕にたゞよひ濤の音風の音は一語一語の話の間にも入り来りて夜となりその夜は遂に泊められ申し候

 前日に生まれて初めて海を見た賢治にとって、この海辺の宿での一夜は、さらに「海」というものの印象を強く焼きつけてくれたのでしょう。「海は次第に暗くなり潮の香は烈しく漁村の夕にたゞよひ濤の音風の音は一語一語の話の間にも入り来りて夜となり・・・」という一節は、後の賢治の作品をもかすかに連想させるような、独特の描写です。
 伯母の身の上を案じる賢治の手紙は続きます。

伯母さまはずいぶんやせ申し候 血色はよろしきやうに見え候へども一日の食物は土鍋一つの粥のみと聞き申し甚だ驚き申し候 仙台の大内といふ人及静助さんはずいぶん親切にする由にて候
菖蒲田には客たゞ一人、伯母さまあるのみにて今はずいぶん淋しく私にても只一人かの地にあらばずいぶん心細く思ふべく候 すべてに不自由なしとは云はれ候へどもあまり永くかの地に止りたしと思はれぬ様は言葉のはしはしに見え候へき

 その夜と翌日について、賢治の手紙は下のように終わります。

九時半頃小生は先に睡り申し候 この夜咳の音に二度ばかり目覚め申し候 翌朝朝食を少しおそく食ひ八時二十分の汽車に間に合ふ為大急ぎにて来路を歩みとても間に合はざるやうなれば半分路より俥に乗り申し候 九時仙台着 助役に小生の宿を聞き巡査に幾度か尋ねて堺屋といふ宿屋に着し十二時一行と合し申し候
先づは以上伯母さまのことを御報知迄                敬具

 以上、賢治が父に、伯母ヤギとの再会について報告した手紙の全文でした。

 一方、賢治が晩年になって書きつけた「「文語詩篇」ノート」には、この時のことについて次のように記されています。

五月 仙台修学旅行
伯母ヲ訪フ。松原、濤ノ音、曇リ日
                  磯ノ香
伯母ト磯ヲ歩ム。夕刻、風、落チタル海藻
           岩ハ洪積

 晩年になってからも、この情景はとても印象に残っていたのでしょう。夕方、賢治が伯母と一緒に磯を歩いたことが記されています。

 さて、この時に賢治の伯母は宿に「客たゞ一人」という状況だったということですが、この「大東館」という旅館は、明治時代にできた非常に由緒ある旅館だったということです。
 現在の七ヶ浜町が発行している菖蒲田浜の案内には、次のように書かれています。

大東館(だいとうかん)
 明治21年、菖蒲田海水浴場が開設されたことに併せて、大東館が建てられました。
 当時の海水浴は、「潮湯治」(しおとうじ)とも呼ばれ、療養を目的に全国へ広まりました。18世紀の中頃、イギリスの医師が海岸に患者を集め、海水に浸らせたのがその始まりと言われています。大東館はいわば湯治をするための療養(保養)施設で、財界人や軍人などの有名人の来館が後を絶たなかったといわれています。
 上棟式には若きありし日の「大東館」後藤新平(後の満鉄初代総裁・東京市長)も出席したといいます。その後も、文人では島崎藤村や宮沢賢治なども訪問しています。しかし、場所は岬の突端にあり風や波によって浸食が激しく、建替の話もあったそうですが、結局は撤去されてしまいました。

 上の「撤去前の大東館」の写真も、七ヶ浜町の発行している案内に掲載されているものです。
 「幽霊屋敷」のようになって残っていた大東館の建物は、1991-1992年ごろに、取り壊されたということです。

◇          ◇

 さて、先週の連休に私は、賢治が伯母と感動的な再会を果たした「大東館」の跡を見てみたくて、「シオーモの小径」を訪ねた後、タクシーで七ヶ浜町の菖蒲田に向かいました。

 下が、菖蒲田の漁港です。

菖蒲田漁港

 そして、上の写真で向こうの方に小さな林のように見えている場所が、その昔に「大東館」があった場所です。
 岬のように海へ突き出ている小高い丘の斜面を登ると、旅館跡は今は下のような空き地になっています。

「大東館」跡地

 ちょうど近くで犬を散歩させていたおじいさんに確認してみましたが、確かにこの場所に「大東館」があったとのことでした。
 岬の東側には、下のような磯や砂浜があります。

大東館わきの磯

 賢治が「伯母ト磯ヲ歩ム」と書き残したのはこのあたりのことかと、思いをはせました。二人が歩いたのは今から98年前、ヤギが42歳、賢治が15歳の初夏のことです。

 そしてこの時に賢治は、無理をしてでも伯母を訪ねておいて正解だったでしょう。平賀ヤギは、療養の甲斐もなくその半年後の1912年12月1日に、世を去ったのです。

 賢治が晩年の1931年ごろに使用していた「雨ニモマケズ手帳」のp.77-78には、次のような書き込みがあります。

雨ニモマケズ手帳「為菩提平賀ヤギ」

 右端に「為菩提平賀ヤギ」、すなわち「平賀ヤギの菩提の為」と題して、「南無妙法蓮華経」の題目が7回書かれています。手帳でこの少し前には、「11.3」と記された「〔雨ニモマケズ〕」が書かれていることからすると、賢治がこのページを書いたのは、伯母平賀ヤギの命日である12月1日のことではないかと推測されます。

 当時まだ珍しかった離婚、再婚後の病気、孤独な療養、43歳での死など、幸薄かったかに見えるヤギの生涯ですが、賢治が死ぬまでこの伯母のことを思っていた様子を、うかがわせる書き込みです。