世田米の「農民芸術概論綱要」碑

 もう数年前に訪ねて写真には撮っていたのですが、住田町世田米地区にある「農民芸術概論綱要」碑のページを、「石碑」のコーナーにアップしました。

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 この碑の隣には、2002年に建てられた「雨ニモマケズ」詩碑があり、どちらの碑も、この世田米地区出身の千田悦三郎氏が、建立されたものです。

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 向かって右側の「雨ニモマケズ」詩碑の裏面には、「ふるさとに感謝をこめて」と刻まれていましたが、こちらの碑には、「叙勲記念」と記されています。千田悦三郎氏は、岩手県警に長年在職され、水沢署や県警本部に勤務されたということです。
 生涯に二つも賢治碑を建立されるとは、きっと賢治に対する深い思いをお持ちなのかと拝察します。

 ところで、この碑が建つ岩手県気仙郡住田町世田米地区は、三陸沿岸の大船渡市盛から、内陸の水沢を結ぶ、さかり街道の重要な宿場町です。(下図は「岩手県「歴史の道」調査報告 盛街道」より、クリックすると拡大表示されます。)

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 盛街道の西半分の、水沢から江刺、人首を経て、種山ヶ原に至る部分は、賢治も何度か歩いて作品に残しています。「春と修羅 第二集」の「人首町(下書稿(二)」では、この街道は「広田湾から十八里/水沢へ七里の道」として登場し、その賑やかな様子は、「藻類の行商人や/税務署の濁密係り/みな藍靛の影を引いて/つぎつぎ町を出てくれば……」と描写されています。

 世田米の宿場は、種山ヶ原から20kmほど東にあり、江戸時代から内陸部の米穀類と沿岸部の塩や魚介類の集散地として、栄えていたということです。中心部の「世田米駅」という地区には、下写真のようにいかにも「昔の宿場町」という風情が、今も残っています。
 バスで走っていても、あたりは北上山地の鬱蒼とした山野の中に、突然このような「町」が出現するのが印象的でした。

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 これを後ろの気仙川の方から眺めると、白壁の土蔵が並んでいて、往時の隆盛を偲ばせます。

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 気仙川では、何か魚を獲っている人がいました。

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