馴染みないものと懐かしいもの

 この9月のNHK「100分de名著」では、能楽師の安田登さんが講師となって、『ウェイリー版・源氏物語』を取り上げられておられます。

『ウェイリー版・源氏物語』 9月 (NHKテキスト) 『ウェイリー版・源氏物語』 9月 (NHKテキスト)
安田 登 (著)
NHK出版 (2024/8/26)
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 下掛宝生流ワキ方能楽師の安田登さんには、10年前に東日本大震災のチャリティーイベントとして、中所宜夫さんの新作能「中尊」を上演した際にご共演をいただいて、いろいろお話をうかがう機会がありました。古今東西の文学に精通した安田さんの蘊蓄は、「博覧強記」と呼ばれるほどですが、今回の「100分de名著」では、『源氏物語』の英訳版を再び日本語に訳し戻したというテクストに、スポットライトが当てられます。

 この『ウェイリー版・源氏物語』というのは、今から100年前の1925年~1933年に、語学の天才と呼ばれたアーサー・ウェイリーというイギリス人が、独学で英語に翻訳したものです。出版された “The Tale of Genji” は、当時のイギリスやアメリカで大反響を呼び、900年以上前の極東の片隅でこのような物語が書かれていたことに、西洋の人々は驚嘆したということです。
 レイモンド・モーティマーという当時の批評家は、次のように評しています。

 舞台を構成する文明はきわめて審美的で、騎士道時代のヨーロッパに似通うところがあった。そして何よりも登場人物の性格が繊細な筆致で描きだされていたばかりでなく、様々の、もっとも洗練されたかたちの愛の情熱が、深い理解をもって表現されていた。そして茂りすぎた庭、荒れはてた家、荒涼とした雪景色、恐ろしい嵐の情景は、ブロンテ姉妹を思いおこさせたし、源氏が仮宿の暁に近隣のざわめきを間近に聞くくだりなどはふしぎとプルーストを想起させた。つまるところ、ヨーロッパの小説がその誕生から三百年にわたって徐々に得てきた特性のすべてが、すでにそこにあったのである。

(宮本昭三郎『源氏物語に魅せられた男─アーサー・ウェイリー伝─』)

 「光源氏」という主人公の呼称を、ウェイリーは ‘Genji the Shining One’ と訳しているのですが、すでに「光源氏」という名前を聞き慣れてしまった私たち日本人にとっては、紫式部が元来この特別なキャラクターに込めていた「光輝」が、この英訳によってあらためて蘇ったようにも感じられます。

 さて、このようなウェイリー訳の “The Tale of Genji” を、数年前に毬矢まりえさんと森山恵さんという姉妹が、日本語に再翻訳して刊行されました。

源氏物語 A・ウェイリー版1 源氏物語 A・ウェイリー版1
紫式部 (著), アーサー ウェイリー (翻訳), 毬矢 まりえ (翻訳), 森山 恵 (翻訳)
左右社 (2017/12/22)
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 日本語(古文)から英語に訳して、それをまた日本語(現代文)に戻したということならば、明治-大正の与謝野晶子訳、昭和の谷崎潤一郎訳、平成-令和の角田光代訳のような、「現代語訳 源氏物語」の一種なのだろうと誰しも考えるでしょうが、しかしこの毬矢・森山訳『ウェイリー版・源氏物語』は、従来の現代語訳の系列とは、相当に違ったものになっているのです。
 この「違い」の部分を意識して、毬矢・森山氏は自分たちの翻訳を、「らせん訳」と名付けておられます。「一周回って元の場所に戻る」のではなくて、らせん階段のように、「一回転して違う階層に出る」のです。

 下に、その実例を挙げます。

〈原文〉
 源氏中将は青海波せいがいはをぞ舞ひたまひける。片手には大殿のとうの中将、(……)入り方の日影さやかにさしたるに、がくの声まさり、もののおもしろさほどに、同じ舞の足踏み、面もち、世に見えぬさまなり。(……)おもしろくあはれなるに、みかど涙をのごひ給ひ、上達部かむだちめ親王みこたちもみな泣きたまひぬ。えい果てて袖うちなほしたまへるに、待ちとりたる楽のにぎはゝしきに、顔の色あひまさりて、常よりも光ると見え給ふ。

(岩波文庫『源氏物語』より「紅葉賀」)

〈らせん訳〉
 プリンス・ゲンジはトウノチュウジョウ頭中将をパートナーに〈ブルーウェイブス青海波〉を舞います。(……)沈みゆく金色の夕日が、ゲンジに降り注ぎ、ふと楽の音が高まる、その妙なる瞬間。ゲンジの雅びな足の運び、たおやかに傾けた首。これほど眩いものを見たことがあるでしょうか。(……)あまりに美しく感動的で、エンペラーの目もうるみ、皇子や貴公子たち誰もが嗚咽せんばかりでした。歌い終え、舞衣の長い袖を整え直したゲンジは、次の音楽を待ち、いよいよ第二楽章が華やかな音調で始まりました。頬を生き生きと紅潮させ、一心に舞う姿は、まさにゲンジ、ザ・シャイニング・ワン。

(毬矢・森山訳『源氏物語 A・ウェイリー版』より「紅葉賀」)

 すなわち、毬矢・森山訳では、人名はまるで外国人の名のようにカタカナで表記し、上の〈トウノチュウジョウ頭中将〉や、他の箇所では〈ワードローブのレディ更衣〉や〈ベッドチェンバーのレディ女御〉などのように、身分や役職を表す言葉もカタカナで記しつつ漢字をルビとして添えるという、独特の表記にしてあるのです。
 このような表記法が及ぼす効果として、私たちは古い日本の皇族や貴族たちの営みを、まるでどこか見知らぬ国で繰り広げられるお伽話のように感じつつ、読み進めることになります。

 そして、これこそが毬矢・森山訳『ウェイリー版・源氏物語』の特徴だろうと思うのですが、上記の手続きのおかげで私たちは、自分がそれなりに知ったつもりになっている平安宮廷という世界から、少し離れた場所に立ってこの〈物語〉を俯瞰することにより、そこに描かれた〈美〉や〈愛〉や、人々の間の〈情〉というものを、より純粋に新鮮な形で、感じとることができるように思うのです。
 上に引用した「紅葉賀」の帖の一節は、中宮である藤壺が光源氏との間の禁断の子を孕み、そうとは知らぬ帝が藤壺に見せようと舞の試楽をさせた場面で、舞う光源氏もそれを見る藤壺も、罪の意識を抱えつつの「青海波」だったわけですが、「沈みゆく金色の夕日が、ゲンジに降り注ぎ、ふと楽の音が高まる、その妙なる瞬間。ゲンジの雅びな足の運び、たおやかに傾けた首」というところなど、洋の東西を超越したような〈美〉の気配が漂います。

 もともと翻訳というものは、読者がなるべく違和感なく作中の世界に馴染めるように、あたかも初めからその言語で書かれていたかのように、滑らかに訳すのがよいと考えられていましたが、20世紀末に「同化翻訳(domesticating translation)」と「異化翻訳(foreignizing translation)」という視点が登場します。この見方からすれば、違和感を最小化しようとする「同化翻訳」は、読みやすいというメリットがある反面、他文化を自文化の中に取り込んでしまおうする強引さも秘めているのです。これに対して、なるべく原文の特性を生かそうと努めることで、たとえ読みづらくなっても他文化を尊重しようとする「異化翻訳」の意義が、近年は注目されるようになっているのです。
 毬矢さんと森山さんも、今回の翻訳を扱った『レディ・ムラサキのティーパーティ』というエッセイの中で、この「同化」と「異化」について触れておられます。

 翻訳論の用語でいえば、英語読者になじみやすいよう「同化翻訳」したウェイリー。その訳語をわたしたちが現代の読者に伝えることによって、『源氏物語』に「異化作用」を起こせるのではないか、起こしたい、そう願ったのだ。イギリス側にあったオリエンタリズムの批評ともなり得るだろう。またある種のアダプテーションでもある。これらすべてを含め、らせんのイメージを描いたのである。

(毬矢まりえ・森山恵『レディ・ムラサキのティーパーティ』)

 実際のところ、アーサー・ウェイリーが、原文の「更衣」や「女御」を、‘Lady in the Wardrobe’ ‘Lady of the Bedchamber’ と訳したのは、イギリスの貴族社会に合わせた「同化翻訳」の典型ですが、毬矢・森山氏がこれを紫式部による原語に戻さず、〈ワードローブのレディ更衣〉および〈ベッドチェンバーのレディ女御〉などという独特の表記法で訳したのは、イギリス流に変容された平安宮廷の描写を、あえてそのまま日本に持ち込むことにより、古代日本の情景を「異化」しようとしたのだと言えるでしょう。

 このような特殊な「異化翻訳」のおかげで、毬矢・森山訳『ウェイリー版・源氏物語』は、これまでになかった不思議な物語世界を、現出させているのです。

レディ・ムラサキのティーパーティ らせん訳「源氏物語」 レディ・ムラサキのティーパーティ らせん訳「源氏物語」
毬矢 まりえ (著), 森山 恵 (著)
講談社 (2024/2/22)
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 ところで、私は以前に賢治の創作方法について、翻訳における「同化」対「異化」と同じようなことを考え、「「銀河鉄道の夜」の日本名登場人物」という記事を書いてみたことがありました。
 この記事において私は、「同世界化」対「異世界化」という言葉を使ったのですが、賢治は創作を行う際に、この世界とはどこか違う「異世界」的な舞台を設定した上で物語を展開させるというのが、彼の一つの特徴と思われたのです。

 現実の「岩手」を舞台とするかわりに、「イーハトーブ(イーハトーヴォ)」という架空の国を作り、そこに「ハーナムキャ」とか「モリーオ」などの町があって、登場人物の名前も「レオーノキュースト」とか「デステゥパーゴ」とか「グスコーブドリ」などという国籍不明のものになっているのもそうですし、「銀河鉄道の夜」では、「ジョバンニ」や「カムパネルラ」などはイタリア人の名前を連想させますが、ジョバンニのお父さんが北方の海に漁に出ているところなどは、地中海のイタリアではありえません。

 賢治によるこのような「異世界化」の設定によって、読者にとっては「どこかわからない見知らぬ国」の出来事のような、不思議な印象が醸し出され、独特の作品世界が現れます。『赤い鳥』を主宰していた鈴木三重吉が、「タネリはたしかにいちにち噛んでゐたやうだった」の原稿を見せられて、「あんな原稿はロシアにでももっていくんだなあ」と言ったという逸話は、一面では賢治による卓越した「異世界化」の成果を、言い当てているようにも感じられます。

 賢治がその創作の初期から、こういった「異世界化」の手法を自家薬籠中の物にしていた背景としては、いろいろなことが考えられるでしょうが、私が以前から想像していたのは、賢治が子供の頃から親しんでいたという翻訳物の童話の影響です。

『未だ見ぬ親』表紙 たとえば賢治は、小学校3年の時に担任の八木英三教諭から、童話『未だ見ぬ親』(エクトール・マロ原作『家なき子』の、五来素川による翻訳)を読み聞かせてもらい、強い印象を受けたということですが、この五来素川による訳は、「同化翻訳」の最たるものでした。(右画像は、大阪府立国際児童文学館所蔵『未だ見ぬ親』1903)

 マロの原作『家なき子』では、主人公の「レミ」少年は、親の分からぬままに「シャヴァノン村」で8歳まで育ち、「ヴィタリス親方」の旅回りの一座に売られます。
 これが五来素川の訳では、国は「仏蘭西」で首都は「巴里」なのですが、主人公は「太一」少年、育った村は「関谷新田」、旅の一座の親方は「嵐一斎老人」、一座の犬の名前は「白妙丸」「黒鉄丸」「小玉嬢」です。
 このように物語世界は、読者である日本の子供たちに合わせて「同化」されているのですが、太一の育ての親の「関谷新田のお文どん」は、「山羊の乳で作ったバタ」を使って「ソップ」を調理していますし、その後倒れていた太一を助けてくれた親切な男は「巴里の在所大野村の植木屋、青木作兵衛」で、温室の中で綺麗な花を栽培しています。
 つまり、どんなに「同化翻訳」を徹底しようとしても、どうしても「ソップ」や「温室栽培の花」など、同化しきれない異国的な生活や文化が必然的に残ってしまい、その残った部分が奇妙な異国情緒を醸し出すので、結果として物語世界は、慣れ親しんだ懐かしい存在と、見知らぬ不思議な存在とが、混淆した状態になるのです。

 このようにして賢治が子供時代に親しんだ、馴染みのないものと懐かしいものが不思議に混淆した物語世界への郷愁が、後年になっても「異世界化」の顕著な物語創作の原動力になったのではないかと、思う次第です。

20240908b.jpg 振り返れば、私が賢治の童話を初めて読んだ記憶は、大日本図書から1968年に出た『どんぐりと山ねこ』でした。この本は谷内六郎が挿絵(右画像)を描いていたのですが、絣の着物を着た一郎の可愛らしい姿と対照的に、馬車別当の様子が本当に不気味で、これ以来私にとって宮沢賢治の世界というのは、「懐かしいものと怖いものが奇妙に同居している」というイメージになりました。

 考えてみると「銀河鉄道の夜」もそうで、これは上述の登場人物の名前にとどまらず、細部まで異国情緒ある舞台設定がなされていて、ジョバンニのお姉さんは「トマトで何か」料理をこしらえますし、病気のお母さんには牛乳を飲ませ、星祭りの夜には皆で「ケンタウルス、露をふらせ!」と掛け声をかけるなど、欧風の情緒が行き渡っています。
 しかし他方で、この「ケンタウル祭」の夜に「烏瓜の燈火あかり」を川に流すという風習は、明らかに日本のお盆の「灯籠流し」を踏まえていますし、この日に死者と生者の間の距離が近づいて、銀河鉄道による往還が可能になるというのも、お盆の雰囲気を彷彿とさせます。また銀河と星を祭るというケンタウル祭の趣旨は、天の川の両岸の星にまつわる七夕の儀礼と関連していますので、結局このお祭りは、旧暦七月の上旬から中旬の日本の習俗を、下敷きにしているわけです。
 私たちが「銀河鉄道の夜」を読む時に、遠い世界からの異国情緒エキゾティシズムとともに、何とも言えぬ懐かしさノスタルジーも覚えるのは、このような重層的な作品設定によるところも大きいのではないでしょうか。

 そしてこのような重層性は、実は『ウェイリー版・源氏物語』にも同じように秘められていて、独特の効果を挙げているのではないかと思われます。
 ウェイリーが、工夫をこらして「同化翻訳」を行ったとしても、物語の舞台は「後宮」というアジア的な場所であり、やはりこれは遠い極東の国の、遙か昔の物語です。
 しかしその一方で、最初の方に引用したモーティマーの評のように、イギリスの人々はそこに「騎士道時代のヨーロッパ」を感じ、ブロンテ姉妹やマルセル・プルーストをも、連想するのです。
 また、『レディ・ムラサキのティーパーティ』によれば、「賢木」の帖でゲンジとトウノチュウジョウがかわす和歌のウェイリー訳には、シェークスピアのソネットの表現が秘かに取り入れられているということですし、「明石」で「巌も山も残るまじきけしき」とある部分は、ウェイリー訳では ‘deluge’ という単語が使われていて、これは ‘The Deluge’ と定冠詞を付けて大文字で書けば「ノアの大洪水」を指す言葉だそうで、何と旧約聖書まで踏まえた重層的な翻訳になっているのです。
 すなわち、ヨーロッパ人にとって異国的で不可思議な「ゲンジ」の物語の奥底には、彼らの心の古い地層にある観念につながる巧妙な仕掛けも、施してあるわけです。

 翻って、毬矢・森山訳『ウェイリー版・源氏物語』においては、プリンセス・ゲンジをはじめ〈ワードローブのレディ更衣〉や〈ベッドチェンバーのレディ女御〉のように、登場人物は私たちにとって馴染みのない〈よその世界〉のような雰囲気をまとっていますが、彼らが心を寄せるのは、儚く移ろう四季の情景であり、〈もののあはれ〉であり、日本人としては懐かしさノスタルジーを覚えざるをえない情趣なのです。
 ということで、この「らせん訳」も、やはり重層的な構造になっているわけです。

 さらに顧みるならば、賢治が子供の頃に読み聞かせてもらった『未だ見ぬ親』という物語も、物心ついたら親がいなかった少年としては、自分はこの世の「異人」であり、世界は常に馴染めないよそよそしい場所であり続けたでしょうが、ラストでは究極に懐かしい生みの母親と再会できたことによって、世界はまた親しみを帯びたものとなったのです。

 「馴染みないものと懐かしいもの」は、様々な物語の奥に、重層的に秘められているのだろうと思います。

 ともあれ、安田登さんによる「100分de名著『ウェイリー版・源氏物語』」は、明日以降もまだ3回放送されます。神秘的にも重層化した「ゲンジ」の世界が楽しめることと思います。

『未だ見ぬ親』口絵
(五来素川訳『未だ見ぬ親』口絵)
太一少年と、白妙丸・黒鉄丸・小玉嬢という3匹の犬、右端は生みの母の春日夫人