西南之役民衆殉難者惻隠之塔

 去る3月19日に鹿児島市の公園で、宮沢賢治の「農民芸術概論綱要」の一節を刻んだ碑が除幕されたという記事をネットで目にしましたので、先週の連休前半に、見に行ってきました。
 鹿児島市街の北部にある「南洲公園」に建てられた、「西南之役民衆殉難者惻隠之塔」です。

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20230507a.jpg ご存じのように西南戦争とは、明治維新の立役者だった西郷隆盛が「明治六年の政変」で下野して故郷鹿児島に帰った後、地元で中央政府に不満を募らせていた士族や若者たちに旗印として担ぎ出され、1877年(明治10年)に起こした内乱です。(右図は、小川原正道著『西南戦争 西郷隆盛と日本最後の内戦』中公新書より)

 この年の2月から9月にかけて、鹿児島、熊本、宮崎、大分の各県を戦場として薩摩軍と政府軍の戦闘は繰り広げられましたが、最大の激戦となった3月の「田原坂の戦い」を分水嶺として、以後の薩摩軍は敗走しながら転戦を重ねることになります。当初3万の軍勢は、8月に延岡の北の和田越峠で政府軍に包囲された時点では、3,500になっていたということです。
 ここで西郷は「解軍宣言」を行って、その後の進む道は各兵の好きに任せます。それでも西郷のもとに残った者たちは、夜の闇にまぎれて可愛岳えのたけを越える決死の脱出を敢行し、あとは「死に場所を求める」かのように九州山地を南下して、故郷鹿児島を目ざしました。

 9月1日に、霧島山麓から再び鹿児島県に入った薩摩軍の残党は、最後の奮闘によって島津の殿様ゆかりの城山を奪還しますが、この時点で兵は400を切っていました。それでも彼らは、洞窟に身を潜めつつ堡塁を築き、圧倒的な政府軍を前に防戦を続けていました。
 城山を幾重にも包囲した政府軍は、満を持して9月24日に総攻撃を仕掛けます。前進しようとしていた西郷は、体に何発かの銃弾を受けました。西郷は傍らの別府晋介に「晋どん、晋どん、もうここでよかろう」と言って膝を折り、介錯を受けたということです。

 両軍の死者数は、薩摩軍が約6,800名、政府軍が約6,400名で、民間人の犠牲者数は「不明」とされています。
 同じ鹿児島出身で、明治維新の立役者だった西郷隆盛と大久保利通という盟友の運命は、一方の西郷が「賊軍」の首領、もう一方の大久保がそれを征討する政府の最高権力者という形で、大きく分かれてしまいました。
 当時の鹿児島県民にも、双方の立場の人々がいたと思われますが、互いに生死を賭けて戦った結果、一方が勝者となり、もう一方の敗者を断罪することになったわけです。戦後の鹿児島の人々の心には、複雑なわだかまりが残ったのではないかと想像されます。

 それを反映してか、今回の「西南之役民衆殉難者惻隠之塔」の隣には、一回り大きい「西南之役官軍薩軍恩讐を越えて」と題された塔が、西南戦争140周年の2017年に、建立されています。除幕式には、西郷隆盛の曾孫と大久保利通の曾孫も参列して、固い握手を交わしたということです。(下写真中央が「西南之役官軍薩軍恩讐を越えて」の塔、右側が「西南之役民衆殉難者惻隠之塔」)
 それにしても、戦後140年も経ってから、「恩讐を越えて」という言葉が刻まれるところに、この問題の根の深さを感じずにいられません。

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 左側の四角い「西南之役官軍薩軍恩讐を越えて建立の由来」と題された碑には、次のように刻まれています。

   西南之役官軍薩軍恩讐を越えて建立の由来

 西南之役は、明治の近代国家建設途上における国内最後で最大の内戦である。
明治六年十月、いわゆる遣韓論に破れた西郷隆盛の下野により、その端緒を開き明治十年二月十五日に出群、同十年九月二十四日をもって終焉した。
参戦した兵力は官軍六万人薩軍三万人。両軍合わせて一万四千余人の戦死者を出した。
熊本城の攻防戦、高瀬の大会戦、田原坂の大激戦などが、つとに有名である。
 日本人同士が、親子が、兄弟が、竹馬の友が、血涙山河を濡らす悲劇的戦いに数多有為の人材を失ったこと今もなお惜しみてあまりある。

   回向には 我と人とを 隔つなよ
        看経はよし してもせずとも

 島津家中興の祖と仰がれる日新公(島津忠良)の「いろは歌」である。
日新公の加世田別府城の戦い、島津義弘の木崎原や島津義久の耳川の戦いに続き、島津義弘、忠恒(のちの家久)親子は和歌山の高野山に〝挑戦之役〟など、それぞれに敵味方の別なく「高麗陣敵味方戦死者供養碑」を建立し戦没者を懇ろに供養した。
 両軍相対峙した必死の戦いも、互いの奮闘をたたえ戦没者を敵味方の別なく供養する「博愛慈悲の精神」は武士道の精華として感銘を与えている。
 ここに西南之役百四十年、明治維新百五十年を奇貨として国の安寧と世界の平和を希求し、戦時の労苦に思いを馳せ、もってその遺風を後世に伝えるものである。

        平成二十九年九月二十三日(西南之役百四十年)

 そして、この「西南之役官軍薩軍恩讐を越えて」の5年後にあたる2022年(西南之役145年)に、今度は西南戦争における一般人の犠牲者を悼む「西南之役民衆殉難者惻隠之塔」が建立されました。死者を悼み、平和を願う気持ちを、敵と味方の間の壁を越えて、さらに兵士と一般民衆の間の壁も越えて、普遍的に共有しようという活動の表れなのでしょう。
 そしてその塔に、賢治の「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」が刻まれることになったわけです。

 塔の趣旨を説明する「西南之役民衆殉難者惻隠之塔建立の由来」には、次のように刻まれています。

西南之役民衆殉難者惻隠之塔建立の由来
  怨親平等の心を今に

 いつの世においても、戦いは当事者は勿論のこと民衆の犠牲者が存在することを忘れてはなりません。田や畑は荒らされ、家は焼かれ、逃げまどう戦場において流れ弾にあたるなど、無辜の犠牲者も戦場の悲惨な現実として、私たちは語り継ぐ責務を感じなければならないと思います。
 この戦いがなければ、平穏な人生を送られた人々であったろうと思うとき、なおさらに、その無念のほどを察しないわけにはまいりません。
 ここに、西南之役145周年にあたり、西南之役民衆殉難者惻隠之塔を建立し、その殉難者の冥福を永久に祈り、国の安寧と世界の平和を希求し、もって、怨親平等の精神を後世に伝えるものである。

    令和4年9月24日(西南之役145年)

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 このような趣旨の碑に刻む言葉として、宮沢賢治の「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」が選ばれるというのは、ある意味では尤もなことと思われますが、北国に生まれ育ち繊細な感受性の人だった賢治と、南国らしい豪傑だった西郷隆盛とでは、日本人でも全く対照的な取り合わせのようで、面白い感じがします。

 そこで、宮沢賢治と西郷隆盛の共通点は何かあるだろうか……?と考えてみると、なかなか簡単には思い浮かばないのですが、一つには、どちらも鈴木亮平という俳優さんが、数年前にテレビドラマの主役として演じたということがありました。
 宮沢賢治の役は、「宮沢賢治の食卓」という2017年に制作されたWOWOWの連続ドラマで、賢治の青春時代を爽やかに描いていました。西郷隆盛の役は、翌2018年のNHK大河ドラマ「西郷どん」で、その若い頃から徐々に恰幅がよくなる最期までを、重厚に演じていました。
 性格的にも体格的にも大きな違いのある、二人の実在の人物を演じ分けて、どちらもいかにも「その人らしい」と感じさせるところには、あらためて鈴木亮平さんの俳優としての幅の広さを感じます。

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 またもう一つ、上述のように繊細な宮沢賢治と豪胆な西郷隆盛では、性格は正反対のような気がしますが、磯田道史氏の『素顔の西郷隆盛』を読んでいると、「自分と他者の境界が薄い」ところは、不思議に共通しているように感じられました。
 『素顔の西郷隆盛』(新潮新書)には、次のようにあります。

 もともと西郷は、目の前にいるものなら、なんでもすべて、それに心が憑依してしまうようなところがあります。たとえば犬と一緒にいて、犬がウナギを食べたいそぶりを見せると、自分も大好物なのにあげてしまう。西南戦争での私学校や桐野利秋らの蹶起に対しても、最初はやる気がないのに、じっと考えているうちに、このままでは桐野たちが死んでしまうと思い、自分も憑依してしまうのです。
 自他の区別がない、他人との境目がないばかりか、犬と自分の区別さえもないところがありました。だから、一緒にいるとやがて餅みたいに共感で膨れ上がり、一体化してしまう。自分と他者を峻別するのが西洋人とするなら、それとは違う日本的な心性を突き詰めたのが西郷であり、だからこそ時代を超えた人気があるのだとおもいます。(『素顔の西郷隆盛』p.87)

 「目の前にいるものなら、なんでもすべて、それに心が憑依してしまう」というのは、まさに賢治もそういうところがあった人です。「自他の区別がない、他人との境目がない」というのは、心理学的に言えば「自我境界が薄い」ということで、たとえば短歌の「黒板は赤き傷受け雲垂れてうすくらき日をすすり泣くなり」では、思わず自分が黒板に憑依してしまっています。
 また賢治は、子供の頃から人の痛みを自分の痛みのように敏感に感じてしまい、手を差し伸べずにいられなかったという逸話がいろいろとありますし、作品の中でもその人生においても、自己犠牲的な傾向が目立ちます。

 「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という言葉も、自分個人と世界との間の「境目がない」ところから来る、やむにやまれぬ実感に基づくものだろうと思われ、その意味ではこの言葉を、よく似た気質があった西郷の西南戦争の鎮魂のために掲げるというのも、案外ふさわしいことなのかもしれません。

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 あと一つ、西郷隆盛の言葉として、『南洲翁遺訓』には「命モイラヌ名モイラヌ官位モイラヌ金モイラヌ人ハ仕抹ニ困ルモノナリ」というものが残されています。
 この言葉は、宮沢賢治の短篇梗概「大礼服の例外的効果」で、校長が学生の富沢を評して嘆じた、「卒業証書も生活の保証も命さへも要らないと云ってゐるこの若者の何と美しくしかも扱ひにくいことよ」という一節と、けっこう似ているように思うのですが、どうでしょうか。

 命も名も官位も金も要らないという無私無欲な人物のことを、「立派だ」と単純に褒めるのではなく、「仕抹ニ困ル」「扱ひにくい」と、やや屈折して評価しているところが、何か似ているように感じるのです。
 賢治が自ら『南洲翁遺訓』を読んでいたと考える根拠にまではならないでしょうが、何と言っても西郷隆盛は日本人の間で死後も絶大な人気があり、国会図書館デジタルコレクションで検索しても、明治24年と26年に『南洲翁遺訓』、明治43年に『ポケット南洲翁遺訓』、大正6年に『西郷南洲翁遺訓及遺文 再版』、大正14年に『西郷南洲翁遺訓及遺文 3版』が刊行されています。明治の終わりから大正時代にかけて学校時代を送った賢治としては、偉い人の訓話や講演などで、西郷の言葉を聞かされる機会はしばしばあったのではないかと思うのです。

 そういう時に耳に残っていた「命モイラヌ名モイラヌ官位モイラヌ金モイラヌ人ハ仕抹ニ困ルモノナリ」という言葉が、「大礼服の例外的効果」を書く際に、記憶のどこかから響いてきたのではないか……などと想像します。

 城山の北西にある「南洲公園」の場所は、藩政時代には浄光明寺という島津藩内最大の寺院の敷地でしたが、維新後の廃仏毀釈によって、寺は取り壊されました。たまたま空いていたその敷地に、西南戦争後にまずは西郷隆盛など検死された薩摩軍戦死者40名が仮埋葬されました。
 その後、県内や九州各地に葬られていた薩摩軍戦死者の遺骨が、有志によって徐々に集められ、この場所に葬られていきます。明治13年に参拝所の設置が認められて「南洲墓地」と呼ばれるようになり、明治16年には墓地の一角に浄光明寺も再興されました。
 さらに大正2年には、社殿が設けられて「南洲祠堂」となり、これは大正11年に内務省の認可を受けて、西郷隆盛を祭神とする「南洲神社」となりました。
 「賊」として死んだ者が、「神」にまで昇格したのです。

 昭和52年の西郷隆盛没後100周年には、敷地内に「西郷南洲顕彰館」が建設され、広大な墓地と神社とともに、南洲公園の構成施設の一つとなっています。
 現在、南洲墓地内の墓碑数は748基、葬られている遺骨は2,023柱ということです。

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 本日、「石碑」のページに「西南之役民衆殉難者惻隠之塔」をアップしました。賢治のテキストを刻んだ碑としては、全国で最南端に位置するものです。
 これで当サイトの「石碑」のページに掲載している碑の数は、計160基になりました。