詩「阿耨達池幻想曲」に、下記のような一節があります。
どこかでたくさん蜂雀の鳴くやうなのは
白磁器の雲の向ふを
さびしく渡った日輪が
いま尖尖の黒い巌歯の向ふ側
……摩渇大魚のあぎとに落ちて……
虚空に小さな裂罅ができるにさういない
……その虚空こそ
ちがった極微の所感体
異の空間への媒介者……
「その虚空こそ/ちがった極微の所感体/異の空間への媒介者」という箇所から連想するのは、賢治が残した書き付け「思索メモ2」(右画像)です。
中ほどから下に、「世界・生物・我 ─ 分子 ─ 原子 ─ 電子 ─ 真空」という系列が上から下に向けて書かれ、さらに真空から斜め上向きに折り返して、「真空 ─ 異単元 ─ 異構成物 ─ 異世界」と続きます。
この図によれば、「この世界」の物質は、分割していけば「原子」→「分子」→「電子」と細かくなっていき、その極限において「真空」に至ります。そしてこの「真空」を媒介として、「異世界」を構成する「異単元」→「異構成物」になっていくというわけです。
これは「阿耨達池幻想曲」の、「虚空(真空)」が「異の空間への媒介者」であり、間に「極微の所感体」が介在しているという描写と一致しています。
上の図式で、「真空」において折り返されている部分を伸展して一直線にすると、下の図のようにになります。
ここでは、「真空」を媒介として、「この世界」と「異世界」が連結されているわけで、こちらから真空の向こう側は何も見えないけれども、実はその奧には「異界」が潜んでいる、ということになります。
ところで、上の一つながりの系列からは、何となく下のような数列を連想します。
左半分は、1から始まって、10分の1、さらにその10分の1……と、だんだん細かくなっていく数列で、数式で表せば an = 101-n です。その極限は、ゼロになります。
このゼロから右側に位置する半分は、左半分を鏡に映したように反転してマイナス符号を付けたもので、最後は-1になります。
数直線で、ゼロの近傍を顕微鏡でどんどん拡大していくと、こんな情景が見えるのではないかと空想したりしますが、この数列では、「0」を媒介として、「プラスの世界」と「マイナスの世界」が連結されているわけです。
これら二つの系列では、世界の境界の位置に、「真空」あるいは「ゼロ」があります。ところで、「空」の思想を生み出したインドはまた、数字の「ゼロ」を発明した場所でもありました。
7世紀のインドの数学者ブラーマグプタは、ゼロのことをサンスクリット語で "śūnya(シューニャ)" と呼んだとのことですが、この "śūnya" は、仏教的には「空」を意味する語でもあるということで、これはとても意味深長な一致ではないでしょうか。
つまり、「空」=「ゼロ」なのです。
上に示したように、「この世界」と「異世界」の接点に「真空」が位置し、「プラスの世界」と「マイナスの世界」の接点に「ゼロ」が位置することと、これは図らずも一致しています。
※
賢治は、「この世界」と「異世界」を、数字の「プラスの世界」と「マイナスの世界」になぞらえて、その境界にあるのは「真空=ゼロ」だと考えてみたのではないかと、ふと想像します。
たとえば、童話「やまなし」で、蟹や魚のいる川の水中は、水面から下に位置する「マイナスの世界」です。水中から見る水面は「なめらかな天井」と呼ばれていて、ここが水の内外の境界面であり、標高±0のレベルです。
川の水の外=空気の中は、水面から上に位置する「プラスの世界」であり、ここにカワセミなどが暮らしていて、やまなしの木には実もなっているでしょう。
二つの世界は、基本的には異なった生態圏を成していて、ふだんはお互いに干渉することなく別々に営みが行われているようですが、時にカワセミが水に突入して魚を獲ったり、やまなしの実が川面に落ちて水中に芳香をもたらしたりして、異世界の間の交流が起こるのです。
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