去る1月9日に、岐阜県と愛知県の小学校にある「雨ニモマケズ」詩碑を見学してきました。
まず、岐阜県大垣市の牧田小学校にある「雨ニモマケズ」詩碑は、もう20年以上も前に訪れて、当サイトの「石碑」のページにも既に掲載しているものですが、当時のデジカメによる写真の画質があまり良くなかったので、愛知まで出かけるついでに再訪することにしました。
まず京都から米原まで新幹線で行き、そこから東海道線に乗り換えて、関ケ原駅で降りました。
駅前から、1日に4本だけある路線バスに乗り、10分ほど揺られて「牧田(上野)」というバス停で降りると、詩碑のある「牧田小学校」までは徒歩数分です。
小学校の前には、上写真のように毎年の卒業生が卒業記念に制作したタイルレリーフが、順番に並べられています。
そして、この右奥の方に、「雨ニモマケズ」詩碑があります。
20年前に比べると、御影石もけっこう風化が進んで文字が少し不鮮明になっている箇所もありますが、ここに立って小さな学校の子供たちをずっと見守ってきたのだと思うと、何となく風格も感じます。
この碑の横には、赤御影石でできた右のような副碑があります。
実は、この詩碑を建立したのは学校ではなくて、この小学校の昔の卒業生が個人で作って学校に寄贈されたのだということで、副碑にはその建立者の思いが刻まれています。
小さな種子がやがて
大地にしっかと根ざし
その花がこの世を明かるく
美しく彩どるように
この碑石をきざむ
小さな私の夢が
世のため人のために
わずかでも役に立つことを
たゞひたすらに祈りながら
この碑を建てる
昭和四十七年一月吉日
本田貞夫
建立者の本田貞夫さんという方は、お母様が「お世話になった地域の方々に感謝のしるしを残してほしい」という遺言を残して亡くなられたことから、愛読していた賢治の詩を刻んだ碑を、母校に贈られたのだということです(吉田精美『新訂/全国版 宮沢賢治の碑』より)。そう知ると上の言葉はますます心に沁みます。
詩碑を撮影して、またバスで関ケ原駅に戻ると、少しだけ時間があったので、関ヶ原合戦があった場所の方に向かってちょっと歩いてみました。
下の写真は、駅の西側に架かる跨線橋から、駅の方を眺めたところです。
この橋の名前は、ご覧のように「関ケ原古戦橋」のようですが、これはきっと「跨線橋」と「古戦場」を懸けた命名なのでしょうね。
橋を渡りきると、もう合戦場の跡地です。
左奥に見えるお城のような雰囲気の建物は岐阜県立関ヶ原古戦場記念館、その奧にはここには見えませんが関ヶ原町立歴史民俗学習館があります。中央の建物は、関ヶ原町役場です。
一番奥に見える山は、滋賀県との県境の伊吹山です。
※
続いて、関ケ原駅から再び東海道線に乗ると、大垣で乗り換え、名古屋を過ぎて安城駅で降りました。
この駅から徒歩数分のところに、安城中部小学校があります。
この学校の校庭には、あちこちに小さな詩碑が置かれていて、その全体は「文学の散歩道」と名づけられています。校舎の壁には、右のような「文学の散歩道」の案内図があり、6年をかけて作品に親しめるようになっています。
碑になっている作品は、地元出身の新美南吉の「貝殻」、金子みすゞの「私と小鳥と鈴と」、草野心平の「春のうた」、三好達治の「土」など、全部で19ありますが、その中の一つとして、賢治の「雨ニモマケズ」が入っているというわけです。
おそらく小学校の国語の教科書によく掲載される作品が、集められているのでしょう。
この小学校では、毎年秋に「文学の散歩道 発表会」という催しを行うのだそうです。この日は全校の児童が体育館に集まり、学年ごとに校内の碑に刻まれている詩を、群読したり、担任の先生が曲を付けて歌ったりして、練習の成果を披露するのだということです。
その中で、最長の作品である「雨ニモマケズ」を担当するのは、毎年6年生の役割になっているようです。小学校のサイトのこちらの記事では、発表会に向けての6年生の練習の様子が紹介されています。
さて、小学校の門を入ってほど近いところに、下写真の「雨ニモマケズ」の詩碑があります。
刻まれているのは「〔雨ニモマケズ〕」の冒頭部分ですが、長年にわたって学校生活の中に溶け込んできたという雰囲気があります。
小学校からまた歩いて安城駅に戻ると、東海道線から名古屋で新幹線に乗り換えて京都に帰りました。
新幹線のホームでは、立ち食いの「きしめん」をいただきました。下りホームにある「住よし」で、「かき揚げ玉子入りきしめん」です。麺は舌触りがツルツルでコシがあって、だしの香りも立っていて、美味しかったです。
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そして本日、安城中部小学校の「雨ニモマケズ」詩碑の紹介ページを、アップしました。
これで当サイトに掲載している碑は、花巻市内が51基、岩手県内花巻市外が63基、岩手県外が45基で、計159基となりました。
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