賢治が盛岡高等農林学校の修学旅行で訪ねた「滋賀県立農事試験場」の跡地あたりを、昨年の7月から8月にかけて歩いてみて、「「滋賀県立農事試験場」跡地(修正版)」という記事にまとめたという経緯が、かつてありました。
この記事に対するコメントで、跡地の近辺には「農業試験研究発祥の地付近」と題された碑が立てられているというご教示をいただきながら、諸般の事情でなかなか確認しに行くことができずにいたのですが、本日訪ねることができたので、ここにご報告いたします。
この碑は、大津市立粟津中学校の敷地の南東の隅あたりに建てられていて、地図では下記の赤いマーカーの場所にあります。
ただ、実際に滋賀県立農事試験場があった場所は、上の地図で「大津市立粟津中」の西、「日本電気硝子」というマーカーが立てられているあたりとその北側で、なおかつ「東海道」と表示されている道の西側の一帯ですので、この碑のある場所からは、少し離れています。
にもかかわらず、この中学校の一角に碑が建てられた理由は、「跡地近辺にある公共施設ということで、たまたま設置しやすかったからではないか」というのが昨年の記事の匿名のコメント主さんのご意見であり、私も同感です。
碑の上面は、下写真のようになっています。
はめこまれた金属版には、次のように書かれています。
農業試験研究発祥の地付近
明治28年4月1日、この旧東海道の向いに広がっていた、
粟津が原(旧膳所村別保)に滋賀県農事試験場が開設
以来百年を迎えるにあたり、これを記念して建立(平成7年3月)。
その下の陶板に刷られた写真は、農事試験場の実験田で田植えをしている様子なのでしょう。背景には松並木が続いているようで、これは旧東海道に沿って植えられていた松並木と思われることから、この写真は東の方角(琵琶湖の方向)に向かって撮影されたものと推測されます。
また、碑の前面には、下のような金属板が付けられています。
植物ウィルスが、昆虫の媒介によって伝染されることを発見
した世界的な研究や、日本稲作史上はじめて人工交配により、
新しい品種(近江錦)を育成、実用化に成功したことなどで
農業の発展に貢献した幾多の試験研究が、この地で行われた。
※
ところで、上に「日本稲作史上はじめて人工交配により、新しい品種(近江錦)を育成」との言葉が出てきますが、これについて少し考えてみます。
「滋賀県における水稲品種改良の歴史(滋賀県農業技術振興センター)」によれば、人工交配によって日本初の(=世界初の!)稲の新品種=近江錦が誕生したのは、1905年(明治38年)のことでした。この輝かしい業績は、それから11年後に見学に来た賢治たち一行にも、きっと誇らしく説明されたことでしょう。
実は賢治たちの一行は、この前日の1916年3月25日に、大阪府柏原村にあった農商務省農事試験場畿内支場を見学しているのですが、この畿内支場はその後「稲の人工交配研究」の分野で、滋賀県試験場を上回る最先端の業績を上げるようになっていたのです。その研究を主導していたのは、後に「陸羽132号」の生みの親となる、加藤
畿内支場で賢治たちは、場長から「講話」を聞いたとの記録がありますが、ここでも「稲の人工交配」の話は、農学生たちに強い印象を残したのではないかと推測されます。
上記の加藤茂苞は、1916年4月、すなわち賢治らの訪問の1週間後に秋田県の農商務省農事試験場陸羽支場に栄転して稲の人工交配の研究を続け、1921年(大正10年)には、ついにあの「陸羽132号」を生み出すのです。そして、ちょうどこの年に農学校教師になった宮澤賢治は、冷害に強く食味も良いこの陸羽132号を、地域の農民たちに推奨していくことになります。
後の「陸羽132号」との出会いは、この修学旅行で滋賀県立農事試験場と畿内支場を訪問した際に、ひそかに準備されていたと言えるのではないでしょうか。
以上の経過をあらためて年表にすると、下のようになります。
- 1903:加藤茂苞が畿内支場に着任
- 1904:加藤茂苞が畿内支場で稲の人工交配研究を開始
- 1905:滋賀県立農事試験場で「近江錦」誕生
- 1916:3月、賢治が畿内支場と滋賀県立農事試験場を訪問
畿内支場の人工交配研究はピークを迎えていた
4月、加藤茂苞が陸羽支場に異動 - 1921:賢治が農学校教師となる
陸羽支場で陸羽132号誕生 - 1925:肥効実験で賢治自ら陸羽132号を試みる
※
さて、滋賀県立農事試験場跡地の碑に戻り、京都に戻るまでのいくつかの写真を掲げておきましょう。
通りを渡ると、右端に小さく見えるのが碑です。
ぐるっと琵琶湖側に回って、大津市立粟津中学校の正門。
下写真は、粟津中学校のすぐ北東の琵琶湖岸の、パノラマ画像です。写真の下のスクロールバーを左右に動かしていただくと、真夏の琵琶湖の景色が楽しめます。
京阪電車と地下鉄東西線を乗り継ぎ、帰り道で三条大橋から眺める鴨川。
黒曜石
おつかれさまです。黒曜石と申します。
陸羽132号と宮沢賢治について、今調べております。岩手大学の先生は、添付Youtube シンポジウムにて全集記載の肥料設計票から宮沢賢治が陸羽132号の普及に入ったのは1928年頃と見ております。
岩手県への試験提供開始は1921年ですが、岩手県の推奨品種には1924年からです。
本文の、1922~1925:賢治が「陸羽132号」を農家に推奨 とはどのようなお考えからになるのでしょうか。よろしくお願い申し上げます。
岩手県 江刺金札米シンポジウム
https://youtu.be/MedkseII0kY
黒曜石
すみません。一部訂正させてください。
1921年、岩手、秋田両県にて品種比較試験に供試。1924年、岩手、秋田両県似て奨励品種に採用、です。
お詫び申し上げます。
『東北の稲研究』 監修 鳥山国士 他
hamagaki
黒曜石さま、ご指摘をありがとうございます。
私がこの記事で、賢治が陸羽132号を推奨した時期を「1922~1925」と書いた根拠が何にあったのか、今となってはすぐに出てこず、申し訳ありません。
あらためて調べてみると、賢治自身が陸羽132号に言及しているのは、管見の限りでは1925年の「水稲苗代期ニ於ルチランチンノ肥効実験報告」(『新校本全集』第14巻p.68)が最初のようですので、上の記事は「1925:肥効実験で賢治自ら陸羽132号を試みる」と、訂正させていただきました。
このたびは、貴重なご教示をいただきまして、ありがとうございました。
黒曜石
hamagaki さま
おはようございます。早速の対応ありがとうございます。
入力してからhamagakiさまの他のブログから、1925:肥効実験で賢治自ら陸羽132号を試みる を知りました。
勉強になります。自分のブログはnote にまとめております。これからも、ご指導よろしくお願いします。
hamagaki
黒曜石さま、ご丁寧にありがとうございます。
こちらこそ、今後もよろしくお願い申し上げます。