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「月天子」の一元論

 先週の「アニミズムの系譜」という記事では、「〔東の雲ははやくも蜜のいろに燃え〕」における賢治の「月」のとらえ方が、「万物に心霊が宿る」というアニミズム的な感性の表れと考えられることについて述べました。
 同じような「月」の感じ方は、この詩を発展させたとも言える、「月天子」という晩年の詩にも表れています。(下写真は『新校本全集』第十三巻上の「雨ニモマケズ手帳」より)

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  月天子

私はこどものときから
いろいろな雑誌や新聞で
幾つもの月の写真を見た
その表面はでこぼこの火口で覆はれ
またそこに日が射してゐるのもはっきり見た
后そこが大へんつめたいこと
空気のないことなども習った
また私は三度かそれの蝕を見た
地球の影がそこに映って
滑り去るのをはっきり見た
次にはそれがたぶんは地球をはなれたもので
最后に稲作の気候のことで知り合ひになった
盛岡測候所の私の友だちは
--ミリ径の小さな望遠鏡で
その天体を見せてくれた
亦その軌道や運転が
簡単な公式に従ふことを教へてくれた
しかもおゝ
わたくしがその天体を月天子と称しうやまふことに
遂に何等の障りもない
もしそれ人とは人のからだのことであると
さういふならば誤りであるやうに
さりとて人は
からだと心であるといふならば
これも誤りであるやうに
さりとて人は心であるといふならば
また誤りであるやうに

しかればわたくしが月を月天子と称するとも
これは単なる擬人でない

 「〔東の雲ははやくも蜜のいろに燃え〕」と同じく「月天子」においても、月はでこぼこの火口で覆われ、物理学の公式に従って運動するところの「物質」としての側面を持つとともに、「しかも」また月天子と称して尊崇すべき「精神」的な存在でもあるということが、謳われています。「〔東の雲ははやくも蜜のいろに燃え〕」では、月が「われらに答へまたはたらきかける」「かんばしい意志」を帯びた存在であることが強調されていましたが、自然科学的に記述できる「物質」であることと、同時にこういう「霊的」な性質も持っているということとは、何ら矛盾するわけではないというのが、その主旨と言えるでしょう。

 そしてこのことをさらに詳しく説明しようとしたのが、最後の方に出てくる「人・からだ・心」の喩えだと思われます。

  1. もしそれ人とは人のからだのことであると
    さういふならば誤りであるやうに
  2. さりとて人は
    からだと心であるといふならば
    これも誤りであるやうに
  3. さりとて人は心であるといふならば
    また誤りであるやうに……

 ただこの喩えは、必ずしもわかりやすいものとは言えません。1「人=からだ」も誤りで、2「人=からだ+心」も誤りで、3「人=心」も誤りだと言うのなら、いったい私たちは「人とからだと心の関係」を、どう理解すればよいのでしょうか。

 中地文氏は、「『月天子』論序説」(『国文学 解釈と鑑賞868』所収)において、この作品について次のように述べておられます。

 以上のようにたどってくると、詩「月天子」は、どうやら先行する心理学や哲学の著作を視野に入れながら、「月」と向き合う「わたくし」の立場を語る方向に構想されたと捉えるのが妥当であるように思われる。

 確かに、これは一種の哲学的議論と言えます。

 この部分について、私は以前に「ガリレオの筒眼鏡」という記事で取り上げ、その哲学的含意に関して、1は「唯物論の否定」、2は「物心二元論の否定」、3は「唯心論の否定」と解釈しました。そして、では賢治は何が正解と言いたかったのかということについては、1も2も3も所詮は「実体論」であり、仏教の立場からはいずれも誤りで、「人という現象は結局のところ実体のない「空」である」というのが賢治の考えだったのではないか、と推測してみました。

 しかしここで、先週「アニミズムの系譜」で見たフェヒナーの「万物賦霊論」やヘッケルの「万物有生論」を念頭に置くと、この問題についてまた別の解釈をすることも可能になります。
 すなわち、ヘッケルに代表されるような「汎心論的一元論」においては、物質と精神を別々の「二元」とは考えず、「一元」の異なった側面ととらえるので、それは世界観としては、「唯物論」でも「物心二元論」でも「唯心論」でもない、第四の立場になるのです。この立場を、上に倣って記号で表すとすれば、「人=(からだ≡心)」という感じでしょうか。(「≡」は「恒等」「同値」を表す記号です。)

 これはあくまで、「月天子」末尾の比喩に関する一つの解釈にすぎませんが、賢治が最終行に「これは単なる擬人ではない」とわざわざ書いていることの真意も、この立場からは素直に理解することができるように思います。
 確かに〈人〉は、物質的な「からだ」を持ち、また同時に物質としての大きさや重さのない「心」を持っています。〈月〉もそれと同じなんだと賢治は言いたくて、上のような比喩を持ち出したのでしょうが、しかしそれは単に「人になぞらえて月を見ている」わけではないと、彼は強調しているのです。
 賢治の世界観においては、「人と全く同じように、月自体がそのままで物質性と精神性を兼ね備えている」わけで、これは奇しくも、フェヒナーやヘッケルの考えに一致しているのというのが、本日の記事の趣旨でした。(言うまでもなくこれがさらに、賢治の言うところの「宇宙精神」にもつながっていくわけです。)