賢治が言うところの「異空間」について考える上で、重要な資料の一つが、「思索メモ1」と呼ばれる書き付けでしょう。
「春と修羅 第二集」の「〔東の雲ははやくも蜜のいろに燃え〕」下書稿(二)の裏面に記されたそのメモは、全体としては右画像のようなものですが、この中で「異空間」に関しては、次のような記述が見られます。
まず、最も高い位置から大きな見出しのように「一、十界を否定し得ざること」と書かれ、これが棒線で抹消され、次に段を下げて、「一、異空間の実在 天と餓鬼、/幻想及夢と実在、」、次に「二、菩薩佛並に諸他八界依正の実在/内省及実行による証明」と記されています。
ここには、「十界」「菩薩佛並に諸他八界依正」と書かれていますから、賢治の言う「異空間」とは、仏教の教理における「十界」のことを、とりわけその中でも「諸他八界」すなわち「人」と「畜生」のいるこの世界以外の「八界」、すなわち仏界、菩薩界、声聞界、縁覚界、天界、修羅界、餓鬼界、地獄界のことを、指していると思われます。
「依正」とは、「依正二報」すなわち「正報=過去の業の報いとして得た有情の心身」と、「依報=その心身のよりどころとなる国土・環境」のことで、結局は八つの異空間と、各々において生きる存在を併せて指すことになります。
そして、「一、異空間の実在」の下に、「天と餓鬼」とあるのは、この八界のうちでもとくに「天界」と「餓鬼界」を例示しているのでしょうが、なぜ特にこの二界が取り上げられているのかと考えると、おそらく賢治にとってはこれら二つが、次の行にある「幻想及夢」によって「実在」を感じとれる異空間の典型だったからではないかと、私は思います。
「天」については、賢治は「小岩井農場j」では「天の鼓手」「緊那羅のこどもら」(パート四)や「瓔珞をつけた子」(パート九)を幻視していますし、「風林」では「此処あ日あ永あがくて/一日のうちの何時だがもわがらないで」という、天界にいるトシからと思われる「通信」を受けとった旨を記しています。天界は賢治にとっては、不思議と近くに感じられる異空間だったようなのです。「インドラの網」には、「天の空間は私の感覚のすぐ隣りに居るらしい」との言葉もあります。
一方、「餓鬼」に関しては、賢治が「餓鬼の声」を聴いたという話を、農学校の同僚教師の白藤慈秀が書き残しています。
餓鬼との出合い
宮沢さんは学校の農業実習が終ると、実習服のままの姿で、いつもの心象スケッチ集をポケットに入れて出て行く。どこに行くというあてもなく気のむくまま、足のすすむままに歩いていく。実習の疲れも忘れ、きのうは田圃のほとり、今日は野原というように思索の頭を下げながら静かに歩いていく姿が思い出される。
そして夕刻に学校に帰って来る。私はこのようなとき、いつもどこに行って来ましたかとたずねると、きょうは学校から程近い北万丁目付近の田圃を歩いて来ましたという。今日はどんなことをスケッチして来ましたかと聞くと次のようなことを話された。
田圃の畦道の一隅に大きな石塊が置かれてあるので不思議に思いました。畦の一隅に何故このような石が一つだけ置かれてあるかと疑い、この石には何んの文字も刻まれていないからその理由はわからない、何んの理由なしに自然に石塊一つだけある筈はない。これには何かの目じるしに置かれたに相違ないと考えた。その昔、この辺一帯が野原であったころ人畜類を埋葬したときの目じるしに置いたものに相違ない。また石の代りに松や杉を植えてある場所もある。こういうことを考えながらこの石塊の前に立って経を読み、跪座して瞑想にふけると、その石塊の下から微かな呻き声が聞えてくるのです。この声は仏教でいう餓鬼の声である。なお耳を澄ましていると、次第に凄じい声に変ってきました。それは食物の争奪の叫びごえであったと語った。
宮沢さんに「ガキ」の世界というものは私どもの感覚によって、とらえられる世界でありますかと問うた。宮沢さんはそれはできます、と答えた。この問題についてしばらく論じ合ったことがあった。宮沢さんは高僧伝の中から餓鬼に関しての実話を引証して話された。(白藤慈秀『こぼれ話宮沢賢治』より)
賢治という人は、日常的にこのような「声」が聞こえてしまう人だったわけですね。
つまり、「天および餓鬼」は、賢治がその「幻想及夢」によって、特にありありと「実在」を感じられる「異空間」だったということから、この思索メモに記されているのでしょう。
※
ということで、賢治の言う「異空間」とは、仏教的な「十界」からこの世界を除いた「八界」を指していたということが、彼の残した「思索メモ1」からは読みとれるのですが、仏教に関しては賢治に劣らず見識のあった白藤慈秀が、いみじくも上記引用の最後に「ガキの世界というものは私どもの感覚によってとらえられる世界でありますか」と問い質したように、仏教経典によれば「地下五百由旬」に存在するという「餓鬼界」の存在の声が聞こえるというのは、本来の仏教教理から見ると、かなり怪しげな話ではあります。
ただしかし、上で賢治が語ったように、人や動物が葬られた跡に、餓鬼がさまよい出てくるという話は、別に賢治の創作ではなくて、日本では中世から信じられてきた民間信仰なのです。
折口信夫は、1926年(大正15年)に発表した「餓鬼阿弥蘇生譚」というちょっとおどろおどろしいタイトルの論文で、次のように述べています。
餓鬼は、我が国在来の精霊の一種類が、仏説に習合せられて、特別な姿を民間伝承の上にとる事になつたのである。北野縁起・餓鬼草子などに見えた餓鬼の観念は、尠くとも鎌倉・室町の過渡の頃ほひには、纏まつて居たものと思はれる。二つの中では、北野縁起の方が、多少古い形を伝へて居る様である。山野に充ちて人間を窺ふ精霊の姿が残されて居るのだ。
餓鬼の本所は地下五百由旬のところにあるが、人界に住んで、餓鬼としての苦悩を受け、人間の影身に添うて、糞穢膿血を窺ひ喰むものがある。おなじく人の目には見えぬにしても、在来種の精霊が、姿は餓鬼の草子の型に近よつて来、田野山林から、三昧や人間に紛れこんで来ることになつたのは、仏説が乗りかゝつて来たからであらうと思ふ。私はこの餓鬼の型から、近世の幽霊の形が出て来たものと考へてゐる。其程形似を持つた姿である。
すなわち、賢治がその声を耳にしたような、「山野に充ちて人間を窺ふ精霊」としての餓鬼という存在は、仏教本来のものと言うよりも、「我が国在来の精霊の一種類が、仏説に習合せられて、特別な姿を民間伝承の上にとる事になつた」ものなのです。
折口も挙げている「餓鬼草紙」は、平安時代末期に描かれた絵巻ですが、そのうちの「塚間餓鬼」という絵には、死者の葬られた塚からさまよい出てきた餓鬼たちの姿が、描かれています。
「東京国立博物館 名品ギャラリー」より
賢治が散歩中に見た、人畜類を埋葬した跡の「石塊」の下にも、上図のような餓鬼がうごめいていたということなのでしょう。
私は、先々月の宮沢賢治研究会での「宮沢賢治の他界観」という発表において、賢治が抱いていた種々の宗教的想念は、純粋に仏教的なものには収まらず、日本の固有信仰の影響も相当に受けていたのではないかということをお話ししたのですが、彼の「餓鬼」のイメージに関しても、それは当てはまるのではないでしょうか。彼が目にしたような昔の人畜の塚に、何らかの「精霊」がひそんでいるという伝承は、仏教というよりも日本の民間信仰に由来するものだったのです。
ところで、賢治が妹たちを連れて岩手山に登った時のエピソードを、妹シゲが森荘已池に回想して述べて次のようにいます。
私たちは、おにぎりは二つずつしか持ちませんでしたが、登るのが辛くなったときは、「こんなものでも棄てたくなる程重いものだから」といって兄さんが持ってくれました。八合目あたりで、食べようとしたとき、私のひとつのおにぎりがころころころげおちて、砂礫だらけになり、食べられなくなりました。兄さんは、ひろってきて、「御供養をしよう」と、おにぎりをいくつにも小さく割って、餅まきでもするように、あたりへまきました。
この「御供養」は、山野にひそむ餓鬼や鬼神に食べ物を分け与えることによって祟りを防ごうとする「散飯(さば)」という行為で、「施餓鬼供養」の一種と言えます。こういう何気ないところにも、賢治の素朴な宗教心というものが垣間見えています。
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