サイトのデザインを更新してから3週間ですが、この間に上のタイトル画像の色彩を変な風にしてみたり、ナビゲーションバーに「その他」や「メール」を並べて、「その他」の内容を一部 CMS 化したり、いろいろいじっています。本文右側の「サイドバー」と呼ばれる部分の背景には、詩集『春と修羅』の表紙のアザミの文様を入れてみたのですが、あらためて眺めてみて、やっぱりこれは素晴らしいデザインですね。
ここに描かれているアザミのシルエットは、形としては写実的でありながら独特のリズム感があり、高い装飾性も備えています。何となく、「春と修羅」の一節「いちめんのいちめんの諂曲模様…」というフレーズさえ連想します。
『春と修羅』出版に際して、賢治のためにこの魅力的な図案を描いてくれたのは、当時の気鋭の染織家・工芸作家で歌人でもあった、廣川松五郎でした。廣川は賢治より7歳上で、1914年に東京美術学校(現東京藝術大学)図案科を卒業し、この『春と修羅』の装幀をした1924年には日本美術協会審査員となり、翌1925年は巴里万国装飾美術工芸博覧会に出品して銀賞を獲得しています。1930年に帝展無鑑査となって、1935年には東京美術学校教授に就任するなど、日本の染織界の第一人者と言える存在でした。
この廣川松五郎が、いったいどういう縁で無名の田舎教師の処女詩集のために図案を描いてくれたのかという疑問に、間接的ながらヒントを与えてくれるのが、賢治の親戚である関徳也の、次の文章です。
春と修羅
「春と修羅」は、花巻停車場通りの印刷業者吉田忠太郎氏が印刷しました。賢治は毎日印刷所へ出向いて校正したり、様々の手伝ひをしてかなりの日数を経て出来上りました。校正刷を持つて来て、私の店へ立寄り毎日毎日見せて下さいました。表紙は青黒いザラザラした手ざはりの物が欲しいと申して居りましたが、なかなかそんなのが見あたらず、丁度其の頃私が商用で大阪へ参りました時、尾山篤二郎氏の御世話で、私の友人富谷三郎君にあの布地をみつけてもらひました。賢治の希望に合ふのは唯ザラザラの手ざはりのところだけで、色などは全然違ひます。それでも廣川松五郎氏に図案を書いて戴きせめても青い色地を出さうとしましたが、布地がザラつくので色はちつとも地にのらずこれも失敗しました。背中の文字は尾山氏がマツチの軸で書いてくれましたが、一番上の所の、心象スケツチと書くべきものが、詩集となつてゐるので、後で賢治は金粉を塗つて消されたりしました。(関登久也『宮澤賢治素描』より)
関徳也は一時短歌を尾山篤二郎に師事していたということですから、その縁を頼って、当時すでに高名だったこの歌人に『春と修羅』の題字を書いてもらったのだと思われます。廣川松五郎とのつながりは、上の文章だけからはわかりませんが、尾山篤二郎が作品集を出版する際には、しばしば廣川が装幀を担当していたということですので、その縁で尾山から廣川に依頼してもらったのだろうという説が有力のようです。国会図書館のサイトで公開されている資料を見たかぎりでは、尾山の歌集『明る妙』(1915)、歌集『白圭集』(1928)、短篇集『影絵双紙』(1929)の装幀を、廣川松五郎が行っています。
右の背景は、『春と修羅』の復刻版をスキャンした画像をもとに、繰り返しパターンにしても不自然にならないようトリミングして、透明度を20%まで上げた後、「ザラザラの手ざはり」を出すためにカンバス地のテクスチャを薄くかけてあります。
当サイトの今後の手直しの目標としては、「石碑」や「歌曲」の個別ページも含めてサイトの全体を CMS 化したいということと、あとは「検索」によって詩の草稿テキストも一緒に調べられるようにできれば…、などと思っています。
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