おお朋だちよ 君は行くべく...

 「農民芸術概論綱要」の、「農民芸術の綜合」という節の最後に、次の言葉があります。

おお朋だちよ 君は行くべく やがてはすべて行くであらう

 この言葉の意味がちょっと気になったのですが、これは具体的には、どういうことを言っているのでしょうか。
 ごく普通に考えれば、「農民芸術」という企画について論じ、それを一緒に実践していこうと、農村の若者たちに呼びかけるこの「概論綱要」の主旨からすると、ここに出てくる「行く」というのは、農民芸術の活動を進めて行く、ということかと思われます。そして、「朋だち」である「君」がまず農民芸術を実践して行けば、やがては全ての農民もそれに続いて「行く」であろう、という風に解釈することができます。

 前後の文脈からしても、この解釈でまあ特に問題はないようにも思えるのですが、ただ少し気になる点が一つ残ります。「農民芸術概論綱要」全体の基調としては、主語は基本的に「われら」であり、「われら」はこうあるべきである、だから一緒にこうして行こう、と皆に呼びかける形になっているのに対して、どうしてここでだけは、「君」ひとりが先に行き、それ以外はなぜか遅れて、「やがて」になっているのか?という点です。
 また別の角度から具体的に言えば、「この『君』とは、どういう人のことを想定しているのか?」という問題です。

 この「農民芸術概論綱要」は、農村の若者を対象として1926年1月末から3月にかけて行われた、「国民高等学校」という連続講座の講義内容をもとにしたものですが、誰かその生徒の中に、ここで言う「君」として先に行く者があったとは、考えにくい感じがします。生徒には、各農村から優秀な人材が集まっていたということですが、賢治の講義は難しく、皆なかなか理解しづらかったと言われています。
 となるとこの「君」は、教室で目の前にしている生徒の誰かではなくて、賢治自身の「朋だち」なのではないかとも思われるのですが、そこで私としてどうしても思い浮かんでしまうのは、あの保阪嘉内です。

 保阪嘉内と賢治は、1921年7月に東京で会い、この時賢治は嘉内に対して、一緒に国柱会で法華経の教えを世の中に広める活動をしようと、強く誘ったのだと思われます。しかし嘉内は、故郷に帰って農村の改革発展に努めたいという目標があり、結局は賢治の誘いを断って、二人はそれぞれに寂しさを抱えたまま、別々の道へと踏み出したのだろうと思われます。
 その後の保阪嘉内は、電力会社の依頼で山梨県の地質調査をしたり、山梨日日新聞の記者をしたりした後、1925年5月に新聞社を退職して、故郷の駒井村で農業を始めます。
 おそらく当時の嘉内は、そのことを賢治に手紙で知らせたのでしょう。1925年6月25日付けの、賢治から嘉内への「残された最後の」書簡207には、次のように書かれています。

お手紙ありがたうございました。
来春は私も教師をやめて本統の百姓になって働らきます いろいろな辛酸の中から青い蔬菜の毬やドロの木の閃きや何かを予期します
〔後略〕

 先に営農生活に入った嘉内に続き、「来春には私も教師をやめて本統の百姓になって働らきます」と告げているわけです。
 そして、賢治が国民高等学校で「農民芸術」の講義を行った1926年3月は、賢治がその「百姓」になる直前でした。賢治が、「おお朋だちよ 君は行くべく やがてはすべて行くであらう」と書いたのは、このような流れの中のことでした。
 やがては「すべて」の農村において、このような農民芸術が興隆して、農民の暮らしが精神的に豊かになっていってほしいというのが、当時の賢治の夢でした。農村発展に尽くす嘉内と同じ道を、「やがてはすべて行くであらう」というわけです。
 こういう意味で、「おお朋だちよ 君は行くべく...」という言葉は、あの別れから5年を隔てた保阪嘉内への、賢治からの遠い呼びかけのように、私には感じられたのです。

 一方、この「おお朋だちよ 君は行くべく やがてはすべて行くであらう」という言葉を、もっと大局的に、賢治の「〈みちづれ〉希求」という心理の転帰に重ねて考えてみることもできるでしょう。

 賢治が1921年7月に嘉内に対して、ともに〈みちづれ〉となって仏道を歩もうと請い求めた時、嘉内は別の道を選んで去って行きました。ここで賢治の「〈みちづれ〉希求」は挫折したわけですが、しかしやがて彼は、個人を〈みちづれ〉とするのではなく、一切衆生を〈みちづれ〉として至上福祉を目ざさなければならないのだと、新たに自覚するに至ります(cf.「小岩井農場」)。「〈みちづれ〉希求」は昇華され、普遍化されたのです。
 この一連の経過と考え合わせると、「おお朋だちよ 君は行くべく」という部分は、嘉内が個人的な〈みちづれ〉とならずに去って行ったことに対応するように思えますし、「やがてはすべて行く」という部分は、「すべての衆生を〈みちづれ〉として進む」ことを指しているように感じられます。

 「国民高等学校」における賢治の「農民芸術」の講義を、生徒の伊藤清一書き取った「講演筆記帖」(『新校本全集』第十六巻(下)補遺・資料篇)によれば、「世界が全体真実に幸福にならないうち一人の幸福はあり得ない」「自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する」との記載に続いて、(仏教では法界成仏と云ひ自分独りで仏になると云ふことが無いのである)との言葉があります。
 この「法界成仏」とは、日蓮の書簡「船守弥三郎許御書」にある、「一念三千の仏と申すは法界の成仏と云ふ事にて候ぞ」に由来し、「十界」のうち「仏界」を除いた、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩の「九界」に属するすべての衆生が成仏するということを意味します。
 すなわち、これは一切衆生を〈みちづれ〉とした成仏であり、やはり「やがてはすべて行く」ことになるのです。

 またもう一方で、以前に「トシの「願以此功徳 普及於一切」」という記事に書いたように、「個人的(利己的・排他的)な愛を超克して、普遍的な(凡ての人人に平等な無私な)愛に至らねばならない」という命題は、賢治が「小岩井農場」や「青森挽歌」で定式化するより数年前の1920年に、既にトシが「自省録」に書き付けていたものでした。

 或特殊な人と人との間に特殊な親密の生ずる時、多くの場合にはそれが排他的の傾向を帯びて来易い。彼等の場合にも亦そうではなかったか? 他の人人に対する不親密と疎遠とを以て彼等相互の親密さを証明する様な傾きはなかったか?
〔中略〕
 彼女が凡ての人人に平等な無私な愛を持ちたい、と云ふ願ひは、たとへ、まだみすぼらしい、芽ばえたばかりのおぼつかないものであるとは云へ、偽りとは思はれない。
 「願はくはこの功徳を以て普ねく一切に及ぼし我等と衆生と皆倶に──」と云ふ境地に偽りのない渇仰を捧げる事は彼女に許されない事とは思へないのである。(宮沢淳郎著『伯父は賢治』所収「宮沢トシ自省録原文」より)

 上に引用されている、「願はくはこの功徳を以て普ねく一切に及ぼし我等と衆生と皆ともに仏道を成ぜん」という『法華経』の「化城喩品第七」の「偈」は、もちろん賢治がトシに教えたもののはずですし、その内容について理屈の上では、賢治の方がトシよりも先に理解していたわけです。
 しかし、女学校時代の教師とのスキャンダルという重い心の痛手から立ち直ろうとする中で、トシは21歳にしてこの法華経の言葉の神髄を、体感的に具体的につかみとり、それを「自省録」に書き記したのです。

 賢治がトシの「自省録」を読んでいたかどうかはわかりませんが、たとえ読んでいなかったとしても、上のようなトシの考えについては、彼女自身の口から聞く機会があったはずです。そして、賢治自身が保阪嘉内やトシや堀籠文之進との間の喪失体験において、このトシの考えをあらためて真に具体的に感じとり、「小岩井農場」や「青森挽歌」の推敲過程に盛り込んでいったのではないかと、私は思っています。
 その意味で、賢治よりも先に「逝って」しまったトシの心を賢治が受け継ぐことによって、結局「やがてはすべて行く」(皆共成仏道)ことになるのだと考えてみれば、これもこの言葉の、勝手な一つの解釈になるのではないでしょうか。

 賢治がトシの遺志も継ぐ形で、一切衆生を〈みちづれ〉とする道を歩む決心をしたとすれば、これこそ私がかねてから抱いている仮説のように、彼が「いつもトシとともにいる」と感じるようになった、大きな根拠のようにも思われます。トシの心は、賢治の中でずっと生きつづけていることになるからです。

 ということで、「農民芸術概論綱要」の一節に込められた含意について、思いつくままに考えてみました。
 1921年7月に、賢治が帝国図書館の一室で、保阪嘉内から「君と一緒に行くことはできない、僕は故郷に帰ってやらねばならないことがあるから」と告げられた時、5年後の「おお朋だちよ 君は行くべく やがてはすべて行くであらう」という言葉をもって、嘉内にはなむけの言葉とすることができたなら、それはとても格好よかっただろうな、などと想像したりもしています。