富山英俊著『挽歌と反語』

 明治学院大学教授で宮沢賢治学会イーハトーブセンター前代表理事の、富山英俊さんによる賢治研究書『挽歌と反語 宮沢賢治の詩と宗教』が、刊行されました。

挽歌と反語―宮沢賢治の詩と宗教 挽歌と反語―宮沢賢治の詩と宗教
富山英俊 (著)

せりか書房 (2019/3/20)

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 この本の装幀に使われているのは、上の写真からも少し見ていただけるように、賢治の「青森挽歌」の自筆稿の、美しくも緊迫感のあふれる画像で、これがまず何よりも私にとっては、比類のない魅力を持って目に入ってきます。
 上には写っていませんが、本書の黒色の帯に記されている言葉は、下記です。

『春と修羅』挽歌群の最高峰
「青森挽歌」全篇の音数律と楽曲的な
主題構成を分析し、賢治文学の
反語性・多声性の源泉を(キリスト教
との接触の諸相を読解しつつ)
日本仏教の「本覚」的な性向へと遡り、
仏教思想が「心象スケッチ」を主観性の
表出から離脱させた経緯を展望し、
ゲーリー・スナイダーの賢治詩英訳を
検討し、T・S・エリオットとの類縁
を指摘し、新たな賢治像を提示する

 とても長い一つのセンテンスで書かれていますので、複雑に曲がりくねった印象を与える紹介文ではありますが、この本全体の本質的な要素は、もう全てここに凝縮され詰め込まれています。本の内容紹介としては、もうここに尽きてしまうのですが、これで記事を終わってしまっても何ですので、とりあえず本を開いてみましょう。
 まず本文の最初に位置して圧倒的な存在感を放っているのは、上記のように装幀にも使われている「青森挽歌」を取り上げた「第一章 「青森挽歌」を読む、聴く」です。そこでは、「音数律」という道具を、まるで地質学者のルーペのように丹念に使用しつつ、一片の鉱石も見逃さないような足どりで綿密に進行していくテキストの分析が、とりわけ印象的です。

 音楽に喩えれば、この「音数律」というのは、旋律や対旋律の構成単位としての「動機(モチーフ)」のようなものでしょうが、この章で著者は、賢治という詩人が多彩な言葉のリズムを巧みに駆使する能力において、いかに類い稀な資質をもっていたのかということを、細かく実証的に示してくれています。著者の言葉では、「賢治の詩は、生来の抜群の音感によって細部にいたるまで構成され、定型とそこからの離脱との行き来を精妙に演奏し、長篇詩であっても単調に陥らず多彩に展開する」(p.30)のです。

 この言葉はまさに、私がこれまで賢治の詩を読みつつ感じてきた、その喩えようのない魅力を、具体的な形で表現してくれるものでした。
 例えば、古今東西に「美しいメロディー」というのは数限りなくあるでしょうが、その中でも(少なくとも私にとっては)モーツァルトやベートーヴェンの作った音楽が、その一部を聴いただけでも他に代えがたい魅力を備えているように感じられるのは、個々の動機(モチーフ)が組み合わされ、絡み合い、展開し、変化していく様子が、まさに「精妙」としか言いようのない素晴らしさだからでしょう。それが「なぜ美しいのか」と言われても、何とも説明しがたいですが、単調でもなく、ランダムでもなく、一見気まぐれのように変移しつつも、どこかで均整がとれていて、何とも心地よいのです。
 賢治が自らの詩において用いた音数律も、言わばそういう絶妙なものとしか言いようのないものなのでしょう。

 さらに、このように精妙な「音数律」によって紡ぎ出されていく言葉の連なりは、積み重ねられることによって自ずとさらに大規模で高次の階層の「構造」を形成して行きますが、その「音楽的構成」について、著者の富山さんは次のように述べます(p.63-64)。

 そして、作品の音楽的構成にもう一度戻るなら、この詩篇のここまでの展開は、いくつかの主題や要素の暗示と布置から始まって、妹の死という問いが次第にはっきりと想起され、それから死後の世界の三つの像が出現するというものだった。それらは、異なった方向性をもつ諸主題の対話、交渉という意味で「弁証法的」であり(その衝突からより高い「綜合」が生じる、という意味ではそうではないかもしれないが)、それらの主題がいわば交響曲におけるように展開される。それは「大局的」に言えば、日本の伝統的な詩が十分に発達させえなかった展開ということになるだろうが、しかし賢治のこの作品は、思想の「弁証法的」な展開を詩文の音楽的な構成として劇化するという志向を、近代日本のどんな作品よりも卓越して実現している。じっさい、この詩篇での賢治の詩行は、たとえば英詩の伝統でいえばロマン派の長大なオードに匹敵するものだ。(またT・S・エリオットの長篇詩に。それについては本書第九章で論じる。)

 そして、いったいなぜ、他ならぬ賢治が、これほど長大な詩においてその形式と内容を高度な次元で連関させつつ有機的に構築するという離れ業を、「近代日本のどんな作品よりも卓越して実現」できたのか、ということが、私たちにとっては最大の疑問として現れます。これについて富山さんは、次のように述べます(p.64)。

 東北という地方にいて、英語やドイツ語はかなりできたらしいが、けっしてそれらの言語の長詩を原文で研究する機会が多かったはずはないかれに、なぜそれができたのか? その答えは、だがとうの昔に詩人の弟の宮沢清六によって与えられている。クラシック音楽のレコードのたいへんな愛好家だった賢治は、ベートーベンなどの交響曲を熟知していた。賢治は蓄音機のラッパに耳を突っ込んで、さまざまな音色とメロディを視覚的な像として感受していたというが、交響曲的な構成、構築もまた、そこから獲得したものだろう。われわれは、「兄とレコード」での、「此のころ兄の書いた長い詩などは、作曲家が音符でやるように言葉によってそれをやり、奥にひそむものを交響曲的に現わしたい思ったのであろう」という宮沢清六の発言を文字通りに受け取る必要がある。また、浅野晃は前掲論で「青森挽歌」を「構築し得たこと」が「驚異である」「壮大なマーラー的交響曲」と呼んでいる。(クラシック音楽の愛好家である詩人などは日本に無数に存在してきたが、ほかに賢治のように長篇詩を構成し、かつ多彩にことばを動かせた詩人がいただろうか?)

 私はこの箇所を読んで、かつて自分が高校生だった時代に、ここまで長篇詩ではありませんが「春と修羅」を読んで何とも言えず感動し、自分でその全文をわら半紙に書き写しては読み、これはまるでベートーヴェンの交響曲やソナタの一楽章のようだと感じたことを、懐かしく思い出しました。
 浅野晃氏は、「青森挽歌」を「マーラー的交響曲」と呼んだということですが、さすがにここまで長大になり、また構造も複雑でいわゆる古典的な均整を志向するものではないところからは、これは確かにベートーヴェンではなくてマーラーの交響曲に譬えられるものでしょう。
 (ちなみに以前から私は、賢治の「小岩井農場」は、当該作者の最長の作品であること、全体が6つのパート(楽章)から成っていること、途中では現実的・象徴的な様々な苦悩が描かれながらも最後には若々しい肯定に至るという全体の構成などから、マーラーでいえば交響曲第3番に相当するなぁと、浅野晃氏の指摘は知らないままに思っていました。それでは、「青森挽歌」をマーラーの交響曲で言えば、何番になるのでしょう。その悲壮感の深さからは、かなり対照的ではありますが6番や9番などに当たるでしょうか……。)

 ……などということで、第一章の一つの側面のご紹介だけでも、もうかなりの字数を費やしてしまいましたが、本書の後半部では、キリスト教や仏教の思想への富山さん独自の視点と、それを通した賢治作品の読みが、非常に深く展開されます。本書副題の「宮沢賢治の詩と宗教」が示すように、これもこの本の二本柱のもう一方を成す、重要なテーマなのです。
 その中でも、今回の書き下ろしという「第六章 ヘッケル博士と倶舎―諸説の検討と私見」においては、「青森挽歌」のテキスト中で最も研究者による解釈の分かれる「謎」の部分について、現時点での諸説を丁寧に包括的に整理して、著者の見解を付してくれており、この問題に関心を持っておられる方には、必見の章かと思います。私も「ヘッケル博士」については、「「青森挽歌」における二重の葛藤」の中でも自分なりの解釈を書いてみたりして、相当の関心を持ってはいるのですが、それでも今回の富山さんの論考を読ませていただいて、「やっぱりこの問題は難しいなあ」というのが、率直な感想でした。

 また、宗教的側面からの分析においては、キリスト教における「反律法」という方向性と、仏教における「(天台)本覚思想」を、アナロジーとしてとらえようとする著者の視点は、比較宗教学的に見ても非常に斬新なものではないかと、私には感じられます。しかし現時点で、その検討は私の能力を越えてもいますので、今回の記事での本書のご紹介はこのくらいにし、あとはまた可能ならば、いつか別の記事を立てて考えてみたいと思います。

 ちなみに私は本書を読みながら、これまで賢治学会のセミナー等で謦咳に接してきた富山英俊さんの、理知的で淡々として鋭く、しかしどこかにユーモアもこめられたご発言の様子が、行間から浮かび上がってくるようで、これは研究書としてとても高度で専門的な内容であるとは思いますが、同時に私にとっては暖かく楽しい読書体験でした。

【本書の目次】

はじめに

第一章 「青森挽歌」を読む、聴く
第二章 宮沢賢治の詩の実現(音数律と主題構成)
第三章 賢治仏教学への予備的な覚書(日蓮と親鸞)
第四章 宮沢賢治とキリスト教の諸相―「天国」と
    「神の国」のいくつかの像
第五章 宮沢賢治とキリスト教の一面(反律法)と
    仏教の一面(本覚)
第六章 ヘッケル博士と倶舎―諸説の検討と私見
第七章 心象スケッチ、主観性の文学、仏教思想
第八章 ゲーリー・スナイダーの宮沢賢治
第九章 T・S・エリオットと宮沢賢治

あとがき
参照文献