『宮沢賢治「文語詩稿 一百篇」評釈』出版

 信時哲郎さんの『宮沢賢治「文語詩稿 一百篇」評釈』(和泉書店)が、ついに出版されました。

宮沢賢治「文語詩稿 一百篇」評釈 宮沢賢治「文語詩稿 一百篇」評釈
信時 哲郎 (著)

和泉書院 (2019/2/28)

Amazonで詳しく見る

 信時さんは、2010年に上梓された『宮沢賢治「文語詩稿 五十篇」評釈』によって、翌年に「第21回宮沢賢治賞奨励賞」を受賞されましたが、それから9年の歳月が経ち、その後の厖大で緻密な研究の成果を、こうしてまた私たちの手元で利用できる形にして下さったのです。
 ちなみに、本文は744ページ、本の厚さは4.3cmあります。

 皆様もご存じのように、賢治の文語詩というのは、彼が最晩年に至ってそれまでの人生を回顧し、その生涯における様々な一コマを切りとって、その都度の自らの感慨とともに凝縮し、最後は単純で美しい珠玉のように「結晶化」させたようなテキストです。そこでは、言葉があまりにも圧縮され切り詰められているために、ちょっと読んだだけでは意味不明で難解なものが多いですが、その奥深い含意や賢治の感情が読み解けてくると、何とも味わい深い感動をもたらしてくれます。
 そのように、一見取っつきにくい賢治の文語詩の世界を旅してみる際に、この『一百篇評釈』は9年前の『五十篇評釈』とともに、最高の導き手になってくれるに違いありません。

 本書の構成は、101篇の各文語詩ごとに、作品「本文」の掲出に続き、「大意」、「モチーフ」、「語注」、「評釈」が記され、最後に「先行研究」の一覧が掲げられています。
 「大意」の項では、削ぎ落とされた賢治の表現を適宜補いながら、作品内容を簡潔な口語訳にしてくれていますので、何のことを言っているのかわからないような難しい文語詩も、ここを読むだけで「ああそういうことだったのか」と一瞬にしてわかるようになっています。
 次の「モチーフ」という項がまた秀逸で、作品の背景や、賢治の生涯との関連を、コンパクトにまとめてくれていますので、鑑賞のための最小限の基礎知識は、ここで得られるようになっています。
 たとえば、「岩手公園」の「モチーフ」の項目には、

賢治の文語詩は、岩手に生きる様々な人を登場させようとする、いわば「岩手ひとり万葉集」とでもいうものを編もうとする試みだったと思うのだが、定稿を書こうとした段階で、賢治はタッピング一家を思い出したということであったかと思う。

という一節もあって、この「岩手ひとり万葉集」という表現などは、これほどまで綿密に賢治の文語詩を読み込んでこられた、信時さんならではの視点から生まれた言葉だと思います。いにしえの「万葉集」が、この国土で生活している様々な人々の息吹や行いを記録しつつ抒情に高めたように、賢治の文語詩群にも、そのような時代を越えた普遍性が感じられます。
 さらに続く「語注」では、難解であったり解釈の分かれる語句を、文献も踏まえて丁寧に説明し、そして中心となる「評釈」では、厖大な先行研究や、出版されていないインターネット上の言説までも幅広く参照して、実に精密な作品分析が行われます。
 私事ながら、私のこのブログを参照していただいている箇所も、全部で実に10か所を数え、それぞれ丁寧に引用した上で、賛成であれ反対であれ真摯に評価をして下さっているのが、本当にありがたく存じます。

 「評釈」の例としては、たとえば「文語詩稿 一百篇」の最初の作品「」は、私も大好きな詩の一つなのですが、これについては作品が掲載された『女性岩手』という雑誌の創刊号の巻頭言やそこに掲げられた精神、また当時の社会情勢を論じて、最後は次のように閉じられます。

 だとすれば、まだ母としての自覚、大人としての自覚の薄い母親が、本当は自分の方が大きな声を出して飛びつきたいくらいの瓜を、黙ってわが子に譲るというシーン、すなわち子どもが大人になり、女の子が女になる瞬間の記述として、賢治は興味深いものとして書き留めたかったのではないか、というようにも読めてくる。そしてそれは、大正六年の感動であるに留まらず、昭和七年に至っても、永続していたのではないかと思えるのである。世に欠食児童が増えていた時期であったからこそ、新しい岩手の生活と文化を担う女性たちへの期待を込めて、賢治はこうした作品を書いたのだと考えたい。

 「定稿」になってしまえば、たった4行の小さな作品で、そこには秋空と雲と風と山とススキと、二人並んで歩く母子の微笑ましい遠景が見えるだけですが、そのさらに奥には、こんな厳しい世相や、女性運動に向かう希望や、暖かい賢治の思いも込められていることが、じんわりと浮かび上がってきます。

 賢治の文語詩というものが、見かけは小さな美しい「結晶」の中に、実は「一つの世界」を宿しているということを、わかりやすく紐解いて教えてくれる、この本は素晴らしいガイドブックだと思います。