「春谷仰臥」(「春と修羅 第二集」)には、次のような表現が出てきます。
羯阿 迦 居る居る鳥が立派に居るぞ
羯阿迦 まさにゆふべとちがった鳥だ
羯阿迦 鳥とは青い紐である
この時、賢治と一緒に岩手山麓を歩いていた森荘已池が、後に「「春谷仰臥」の書かれた日」という文章に、まさにこの言葉を発した賢治を記録しています。
笹やいろいろのつる草、若い白樺や、はんの木が、谷間いっぱいに生え、うぐいすが、そっちこっちで鳴いていた。ひとつの谷間に入ろうとしたときだった。ギャーギャーと、突然鳴いて、飛んだ鳥があった。尾の長い大きい鳥である。宮沢さんは、突然、
≪トリトハ アオイヒモ デアル≫
と、リンリンとした声を出した。そして手帳に何か書いている。
光が冷めたい水の層のように気圏の底にみち、鳥の声は、青い長いヒモをなびかせたように流れるのであった。ああそのひもの多いこと。
≪ヒモでありませんか。青い真田ヒモのようなヒモ、鳥の声は、ヒモのように波打って空を流れるものではありませんか……≫
(『宮沢賢治の肖像』津軽書房 p.276)
またその2週間後の「〔あちこちあをじろく接骨木が咲いて〕」(「春と修羅 第二集」)には、次のような表現があります。
そらでは春の爆鳴銀が
甘ったるいアルカリイオンを放散し
鷺やいろいろな鳥の紐が
ぎゅっぎゅっ乱れて通ってゆく
いずれにおいても、「鳥」または「鳥の声」が、「紐」に喩えられています。
鳥が紐である、というのは鳥そのものの形からすると全くピンと来ませんが、ここで賢治が言いたいのは、「飛ぶ鳥」または「鳴きながら飛ぶ鳥の声」を、三次元空間に時間の次元を加えた四次元空間の中における軌跡として描けば、それはあたかも「紐」のような曲線になる、ということなのでしょう。「農民芸術概論綱要」にある、「巨きな人生劇場は時間の軸を移動して不滅の四次の芸術をなす」という言葉も、これと同型の考えを表現しているものだと思います。
この四次元空間における鳥の軌跡を、三次元に射影して図示すると、たとえば下のようになるでしょう。x、y が空間を、t が時間を表しています。
この図では、本来は三次元の空間が、二次元の xy 平面に射影されていて、それに時間 t を加えて、三次元になっています。私たちが直接目にする飛ぶ鳥の軌跡は、xy 平面上のグレーの曲線であるのに対し、図中の青い曲線が、時空間の中における鳥の軌跡(=賢治の言う「紐」)です。
実際に賢治の「心象」の中で、飛ぶ鳥が四次元時空間に形づくる「紐」とはいったいどんなもので、彼にどんな感興を呼びおこしたのか、それは私たちが各自で想像してみるしかありませんが、たまたま私は最近、シャビ・ボウというスペインの写真家の作品を目にして、これこそが賢治の言う「鳥の紐」ではないかと思いました。
彼は、鳥の飛行を撮影した連続写真を1枚に合成することで、空間上にその美しい軌跡を定着する方法を確立し、これを"ornitography"と名づけています。"ornito-"とは、「鳥の~」という意味の接頭辞ですから、「鳥図」とでもいう感じでしょうか。
下に、シャビ・ボウ氏のインスタグラムから、そのいくつかをご紹介します。
何とも不思議な美しさがたたえられていますが、これらの印象的な写真を見ていると、賢治が「鳥は紐である」と言った感覚が、ふと直観的に理解できるような気がしてきます。
コバヤシトシコ
浜垣様
画像を大変興味深く拝見しました。
先頃、私達のグループで、〈青い紐〉という表現が話題になりました。鳥種を云々することでは無く、鳥の飛翔そのもの、または鳥の鳴き声を共感覚的に表したのか、という結論になりました。
この画像は、科学的な証明?になりますね。これを感じ取っていた賢治はやはり凄いです。今夜は遅いので.またゆっくり画像を見たいと思います。
hamagaki
コバヤシトシコ様、コメントをありがとうございます。
ちょうど最近、そちらのグループにおいても〈青い紐〉のことが話題になっていたとは、不思議な一致ですね。
私もこれは、「鳥の飛翔そのもの、または鳥の鳴き声」の、賢治独自の表現なのだろうと思います。
このシャビ・ボウ氏の写真は、鳥の飛翔をいわば時間的に「積分」したものですが、ご指摘のようにもしも賢治だったら、飛ぶ鳥を「そのとほり科学的に記載」した、とでも言いそうですね。