一昨日に行われた、宮沢賢治学会地方セミナーin神戸「宮沢賢治と音楽」は、素晴らしい会場にたくさんの方々にお越しいただいて、印象に残る催しとなりました。
下の写真はリハーサル時のものですが、プログラムの最後ではこの見事なパイプオルガンで、映画「風の又三郎」のテーマ音楽や、「星めぐりの歌」が演奏されました。何メートルもある巨大なパイプが「どっどど どどうど・・・」と振動する様子は、まさにこれは「風の楽器」であることを実感させてくれました。
私にとって今回のイベントは、長年『新校本宮澤賢治全集』の歌曲の部分の校訂や、著書『宮沢賢治の音楽』によってその研究成果を学ばせていただいた、佐藤泰平さんに直接お会いしてお話をうかがうことができたことが、何よりも嬉しいことでした。
個人的に、『新校本全集』の歌曲の校訂に関して疑問に思っていた点がいくつかありましたので、セミナー終了後の懇親会の際に、佐藤さんに質問をさせていtだきました。
以下、そのご報告です。
【質問1】
『新校本全集』における歌曲「〔私は五聯隊の古参の軍曹〕」の歌詞は、『十字屋版全集別巻』巻末に付された「全集第六巻並に別巻解説」(森惣一)に、「当時の生徒」の証言として掲載されていた内容に基づいて、下記のようにされている。
一、私は五聯隊の古参の軍曹
六月の九日に演習から帰り
班中を整理して眠りました
そのおしまひのあたりで夢を見ました。
二、大将の勲章を部下が食ふなんて
割合に適格なことでもありませんが
まる二日食事を取らなかったので
恐らくはこの変てこな夢をみたのです。
一方その旋律は、当時の流行歌「チッペラリー」を忠実に反映した下記のようなもので、これに従うと歌詞の「一番」と「二番」の旋律は別のものになる。
しかし、賢治が「飢餓陣営」を上演した際には、「一番」も「二番」も上の楽譜で言えば5段目の"CHORUS"と書かれている以降の部分の旋律で歌っていたと推測するのが、妥当ではないか?
私が上のように推測した理由の一つは、一般的に歌の「一番」と「二番」とは、同じ旋律で歌うものであり、賢治の他の歌曲でも、「一」「二」と番号が付いているものはそうなっているという、ごく当たり前のことでした。
そして、そのもう一つの理由は、賢治の教え子の小原忠の証言です。小原は、「この歌(チッペラリー)は大正十二年、賢治が英語で教えて全校で歌われた。初めの方だけうろ覚えで云うと、イッチヤロングウェーチッペラリーイッチャロングウェーツーゴー・・・」と回想しているのですが(佐藤泰平『宮沢賢治の音楽』p.84)、この英語の歌詞に対応するのはやはり上の楽譜の"CHORUS"以降の部分なのです。その部分を、小原が「初めの方」と呼んでいるということは、それ以前の部分、すなわち上の楽譜で第1段から第4段の旋律や歌詞は、賢治は生徒に教えなかったのではないか、と考えられるのです。
この"CHORUS"以降の旋律、いわゆる「サビ」の部分で、「一番」「二番」の両方を歌うこともできることは、佐藤さんご自身も『新校本全集』の校異篇に、「一般には曲の後半がよく知られているので、後半のふしだけを用いて一・二節を歌うのも可能である。」と述べておられることで、佐藤さんも想定済みのことです。
私のこの質問に対する 佐藤さんのお答えは、「確かにそのとおりだと思う、でも一番と二番を別の旋律にした方が面白い」というものでした。
実際、上の楽譜で歌った方が、歌としては面白いのは確かです。しかし、全集の校訂方針としては、「面白さ」よりも「賢治がどう歌っていたか」ということを優先すべきと思いますので、私としては「後半のふしだけを用いて一・二節を歌う」方を取りたいと考えています。
ちなみに、当サイトの「歌曲の部屋」に載せている「〔私は五聯隊の古参の軍曹〕」の旋律は、佐藤さんによる『新校本全集』の楽譜どおりにしていますが、今回の神戸セミナーにおいて、「後半のふしだけを用いて一・二節を歌う」という演奏をご紹介しました。下記をクリックして、聴き比べてみて下さい。
【質問2】
『新校本全集』において「「飢餓陣営」の歌(五)」には、「〔いさをかゞやく バナナン 軍〕」という形で、作者が題名を付けていない場合の扱いとして「作品一行目を〔 〕で括った仮の題」が付けられているが、「飢餓陣営」のテキストにはこの歌詞の前に、「バナナン大将の行進歌」として「題名」と思われる言葉が記入されているので、この「バナナン大将の行進歌」を、歌曲の題名とするべきではないか?
右の画像は、『新校本宮澤賢治全集』第十二巻本文篇から、「飢餓陣営」の終わりの方の部分です。合唱が「いさをかゞやく バナナン軍…」と歌い出す前に、「バナナン大将の行進歌」という言葉があるのです。
これに対する佐藤泰平さんのお答えは、「そのとおり、この歌曲の題名は、「バナナン大将の行進歌」とするのがよいだろう」、ということでした。
【質問3】
『新校本全集』には、全く同じ旋律による「〔つめくさの花の 咲く晩に〕」と、「〔つめくさのはなの 終わる夜は〕」という2曲が別の歌曲として掲載されているが、これらは全体として一つの歌曲と考え、前者が「一番」「二番」、後者が「三番」「四番」ととらえるべきではないか?
これに対する佐藤さんのお答えは、「それでよいと思うが、『校本全集』までの全集では、「〔つめくさのはなの 終わる夜は〕」の方は見落とされていて収録されていなかったので、あえて別項を立てた」ということでした。
この2曲を1曲にまとめてしまうと、賢治の歌曲の総数は、『新校本全集』における27曲から1曲減って「26曲」ということになります。何か少し寂しい感じもしますが、内容的には何も減るわけではありません。
【質問4】
「剣舞の歌」と「大菩薩峠の歌」は、『新校本全集』には「宮沢賢治・作詞作曲」と記されているが、『昭和四二年版全集』の第十二巻の「後記」には、「「大菩薩峠を読みて」と「剣舞の歌」の二つは、この地方に伝わっている古い郷土芸能の旋律に賢治が詞をつけて自己流に口ずさんだものを、各々藤原嘉藤治と宮沢清六が口唱したものである」と記されているので(『新校本全集』第六巻校異篇p.229)、現時点では「原曲未詳」または「作曲者未詳」としておく方が適切ではないか?
『昭和四二年版全集』の言う「この地方に伝わっている古い郷土芸能の旋律」については、佐藤さんご自身も調査をされた結果、「私が調べた範囲で賢治のふし全体と似ているものはなかった」(『宮沢賢治の音楽』p.34)と記しておられます。したがって、本当に「剣舞の歌」と「大菩薩峠の歌」が郷土芸能の旋律に基づいているのかどうか、確定はできませんし、「宮沢賢治作曲」であるという可能性も、まだ否定できるものではありません。
しかし、上のように「宮沢賢治作曲ではない」とする説も存在する以上、現時点では「宮沢賢治作曲」とは断定せず、「原曲未詳」または「作曲者未詳」としておく方がよいのではないかと、私としては考えた次第です。
この質問に対する佐藤さんのお答えは、「それでよいと思います」とのことでした。
ちなみに『新校本全集』では、「〔飢餓陣営のたそがれの中〕」は(原曲 未詳)とされ、「青い槍の葉」は(作曲者 未詳)とされています。
【質問5】
ある歌曲が「替え歌」である場合、その楽譜を作成する上では、替え歌の「原曲」にできるだけ忠実であるのと、それとも賢治の周囲の人々の「口唱」をできるだけ忠実に再現するのと、どちらが望ましいか?
これは、かなり以前に「「【新】校本全集」の歌曲の校訂について」という記事に書いた問題です。
一般に、賢治が何かの原曲をもとに「替え歌」を作って歌っていたとすると、
(1)原曲
↓
(2)賢治による作詞と口唱
↓
(3)周囲の人も一緒に口唱
というプロセスになるでしょう。
賢治はほとんど楽譜を残していませんでしたから、賢治によるその「替え歌」がどんな歌だったのかということを、賢治の死後に究明しようとすると、(1)の原曲の旋律に歌詞を当てはめて再現しようとするか、(3)の「周囲の人」の口唱を採譜するか、どちらかの方法を取ることになります。
『校本全集』までの従来の全集では、(3)に基づいて関係者の口唱を採譜する方法がとられていましたが、『新校本全集』では佐藤さんによって(1)の原曲を重視する方針に変更され、これによってかなりの曲の楽譜が、それまでとは変わりました。たとえば、「〔つめくさの花の 咲く晩に〕」(『校本全集』までの題名は「ポランの広場」)などは、最も大幅に変わった結果、ちょっと聴くと別の曲かと思うほどになりました。
この問題について、私としては『校本全集』までの方針の方が妥当ではないかと考え、そのことを「「【新】校本全集」の歌曲の校訂について」にも書いていたのですが、これを佐藤さんに直接お聞きしてみたかったのです。
結果としては、時間もあまりなかったのと、私の説明も拙かったために、きちんとかみ合った質問と回答という形にはなりませんでした。
ただ、「ポランの広場」の原曲である"In the good old summer time"は3拍子であるのに、『校本全集』までの「ポランの広場」は2拍子になっていることについて、佐藤さんは「当時の日本人は3拍子にあまり馴染みがなかったので、2拍子になってしまったのだろう」とおっしゃっていました。
また、では実際に賢治自身や劇を演じた生徒は3拍子か2拍子かどちらで歌っていたんでしょう、という私の質問に対しては、「時によって2拍子だったり3拍子だったりしたのではないか」とおっしゃったのが印象的でした。
思えば「花巻農学校精神歌」も、沢里武治の記憶に基づくという8分の6拍子の楽譜と、藤原嘉藤治の採譜によるという4分の4拍子の楽譜の2種が残されており、時によって別の歌われ方をしていたと推測されるのです。
慌ただしい中で、以上のような会話をさせていただいたのですが、不躾にたくさんの質問を浴びせかけてしまった私に対して、終始優しく丁寧にお答え下さった佐藤泰平さんに、あらためて感謝申し上げます。
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