つい先日の記事では、「春と修羅 第二集」の「人首町(下書稿(一))」で賢治が目にした「赤い鳥居」のある、奥州市江刺区の久須師神社をご紹介しました(下写真)。
今回取り上げるのは、「春と修羅 第三集」の「秋」です。下記がその全文です。
七四〇
秋
一九二六、九、二三、江釣子森の脚から半里
荒さんで甘い乱積雲の風の底
稔った稲や赤い萓穂の波のなか
そこに鍋倉上組合の
けらを装った年よりたちが
けさあつまって待ってゐる恐れた歳のとりいれ近く
わたりの鳥はつぎつぎ渡り
野ばらの藪のガラスの実から
風が刻んだりんだうの花
……里道は白く一すじわたる……
やがて幾重の林のはてに
赤い鳥居や昴(スバル)の塚や
おのおのの田の熟した稲に
異る百の因子を数へ
われわれは今日一日をめぐる青じろいそばの花から
蜂が終りの蜜を運べば
まるめろの香とめぐるい風に
江釣子森の脚から半里
雨つぶ落ちる萓野の岸で
上鍋倉の年よりたちが
けさ集って待ってゐる
この日おそらく賢治は、「鍋倉上組合」の農家の人々への農事指導のために、当時の湯口村上鍋倉地区にやって来たものと思われます。
乱積雲が暗くかかり風も吹き、あいにく雨模様のようですが、稲穂は稔ってとり入れも間近のようです。「恐れた歳」とあるように、一時は収穫が危ぶまれたのかと思われますが、何とか無事に乗り切って、この日を迎えられたようです。
最初の連と最後の連が、ともに「年よりたちが/けさ集まって待ってゐる」で締められているところは、「皆が自分を待ってくれている」ということに対して賢治が感じている、気持ちの張り合いや喜びがにじみ出ているようにも思えます。
いろいろと苦労も多かった羅須地人協会時代の賢治ですが、こういう充実感も味わいながら、各地を奔走していた一コマなのでしょう。
さて、この作品の13行目に、「赤い鳥居」が出てきますが、これはその位置からすると、鍋倉地区にある「春日神社」の鳥居と考えられるところです。
赤く囲んである区域が鍋倉地区で、その中心に、昔は「村社」だった春日神社があります。「江釣子森の脚から半里」とありますが、春日神社から江釣子森山の麓までは2km弱で、この意味でもぴったりなのです。
ところが、現在の春日神社の鳥居は、下の写真のように御影石でできていて、まったく赤くはないのです。
これはなぜなんだろう・・・、と以前から疑問に思っていたところ、3年前にもご紹介した岡部さんとメールのやり取りをしている中で、たまたま「昔は春日神社の鳥居は赤かった」という話が出たものですから、これはぜひ地元の方にお話しをうかがいたい!と思っていたのです。
そうしたところ、先日岡部さんから連絡があり、体育の日の連休に童話村のライトアップを見に行くので、春日神社の件もどうですか?とのお誘いがあったのです。私は喜び勇んで、10月9日に日帰りで花巻に行ってまいりました。
昼前に花巻空港に着くと、岡部さん親子のお出迎えを受け、「春日流鹿踊保存協議会」会長の藤井智利さんのお宅にお邪魔しました。
藤井さんのお宅では、奥様の素晴らしい手料理をご馳走していただいた後、藤井さんからは春日神社で毎年鹿踊りを奉納してこられたお話しをうかがいました。それによると、今は上写真のように一つの鳥居だけが立つ春日神社ですが、以前は三つの鳥居が重なるように立てられていて、そのうちの一つが赤かったのだということです。三つも重ねて鳥居があった理由は、もともとは神社の前の参道に、「一の鳥居」「二の鳥居」・・・という風に離れて立っていたのですが、道路の拡張のために撤去することになり、神社の入口にまとめて移設されたのだということです。
この日は、花巻市教育委員会文化財課の酒井宗孝さんも藤井さん宅にいらっしゃっていて、酒井さんからは春日神社の歴史について、教えていただきました。
それによると、昔からこの地には「万福寺」という真言宗の大きな寺院があったのだそうですが、鎌倉時代初期の建久年間に、源頼朝から「稗貫郡主」として任ぜられた藤原為重が、その寺院内に鎮守社として春日明神を祀ったのが始まりということのようです。右の写真は、春日神社の裏の林の中にある、「萬福寺跡」という石碑です。
稗貫氏の最初の居城は、やはりこの近くの小瀬川城だったということで、今は花巻の西郊外になっていますが、当時はこのあたりが「稗貫の中心地」だった、ということになるわけですね。
※
その後、藤井さん、酒井さん、岡部さんとともに、実際に春日神社の見学に行きました。
すると、神社の脇には花巻市が設置した「宮沢賢治ゆかりの地」の説明板が立てられていて、ここに上記の「秋」の抜粋が記されるとともに、「この詩に登場する「赤い鳥居」は、春日神社の鳥居といわれていますが、平成15(2003)年の地震で倒れ、現在は石の鳥居になりました」と書かれているのでした。
というわけで、私が知りたかったことは、この最近できた説明板にすでに書かれていたわけです。しかしそれでも、藤井さんに案内していただいて春日神社に来た甲斐がありました。藤井さんは、神社を現在管理しておられる高橋力さんに声をかけて下さって、高橋さんのご厚意により神社の拝殿の鍵を開けて参拝させていただくとともに、2003年5月26日の「宮城県沖地震」の際の春日神社の被災写真を見せていただくことができたのです。
今回、高橋力さんのご許可を得て、地震直後に高橋さんが撮影された写真の一部を、ご紹介させていただきます。
ご覧のように、鳥居、灯籠、玉垣などが痛々しく倒壊し、胸に迫るものがあります。この2003年の宮城県沖地震は、宮城県気仙沼市沖を震源として5月26日18時24分に発生したM7.1の地震で、花巻市の震度は5弱だったということです。
この地震による死者はなかったということですが、震源からかなり離れた岩手県内陸部でも上のような状況で、もしも石造りの鳥居や灯籠の近くに人がいたら、と考えると背筋が寒くなります。神社の復興も、大変なことだったろうと拝察します。
一番上の写真を見ると、三重になっていたと言われる鳥居の、最も外側にあったのが石の鳥居で、これは上部の「笠木」「島木」と呼ばれる部分が落下して、地面の上で割れていますが、二本の「柱」とそれを貫く「貫」の部分は残っています。
二番目にあったのが木造の「赤い鳥居」のようで、ご覧のように全壊しています。
三番目、すなわち最も内側にあった鳥居は、詳しくはわかりませんが、上から二枚目の写真で、左半分に横になって倒れている丸い柱が、おそらく三番目の鳥居のものではないでしょうか。石の鳥居のようです。
※
さて、この倒壊した「赤い鳥居」が、はたして賢治が目にしたものだったかどうか、「秋」が書かれてから77年も経っているわけですから、確実なところはわかりません。
しかし、この鳥居が最初からここにあったものではなく、参道から移設されたものだったことを考えると、少なくともこの神社入口に移設した後で老朽化したとしても、わざわざ同じ場所に建て替えるということはなかっただろうと思われます。上の地震の後にも、三つの鳥居を再建せず一つだけにしたように、老朽化して撤去しなければならなくなったら、ただ単に撤去しただけだろうと推測されます。
となると、2003年まで「赤い鳥居」が残っていたということは、これは賢治が直接見て、「秋」に描いたものだった可能性は高いのではないかと、私としては考えます。
ただし、立てられていた場所は、上のように神社の入口ではなくて、おそらく田んぼの中の参道で、「稔った稲や赤い萓穂の波のなか」だったのではないかと想像しますが・・・。
【謝辞】
今回の春日神社見学にあたりご厚意を賜りました、藤井智利さん、高橋力さん、酒井宗孝さん、そして岡部和保さんに、心より感謝申し上げます。
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