「人首町」詩碑

 今年3月にできた「人首町」詩碑を、「石碑の部屋」にアップしました。

「人首町」詩碑

 賢治はこの人首町を、少なくとも1917年9月3日-4日と1924年3月24日-25日の2回、訪れています。前者は、盛岡高等農林学校3年の時に江刺郡地質調査として、後者は、花巻農学校教師時代の春休みに五輪峠を越えて水沢の緯度観測所へ行く小旅行の途中でした。
 このたび地元の有志の方が、1924日3月25日の日付を持った「人首町」(「春と修羅 第二集」)という作品を詩碑として建立し、同じ日付の今年3月25日に、除幕式を上げられたのです。

 「人首(ひとかべ)」という不思議な名前は、アテルイと坂上田村麻呂が戦った時代に、アテルイ(悪路王)の甥?(息子?)の人首丸が、ここで討ち死にしたという伝承に基づいています。
 その後この場所は、岩手県内陸部の水沢から種山ヶ原を経て三陸沿岸部の大船渡市盛町を結ぶ「盛街道」の宿場町として、さらにこの街道から五輪峠を越えて遠野に至る「五輪街道」が分岐する地点として、昭和初期までは交通量も多く、賑わいを見せていたということです。賢治も、「人首町」(下書稿(二)初期形)に、「広田湾から十八里/水沢へ七里の道が…」と書いています。

 1917年に賢治が来た際には、8月28日付けで岩谷堂町から保阪嘉内に手紙を出し(書簡37)、8月31日には田茂山から(書簡38)、9月2日には伊出から(書簡39)、9月3日にはここ人首から(書簡40)、それぞれ嘉内にあてて投函しています。人首における郵便局の消印が、9月3日午後3時~6時であることから、賢治はこの日はここ人首に宿泊したと推測され、その宿は明治時代から現在も続く老舗旅館である「菊慶旅館」だっただろうと、考えられています。
 この地質調査旅行に一緒に行った佐々木(工藤)又治あてに、賢治が後に出した書簡54には、「人首ノ御医者サン」という言葉も出てくることから、「賢治街道を歩く会|宮沢賢治と人首」というサイトの「菊慶旅館」の項目においては、この日に賢治らが人首に宿泊したのは、同行者の誰かが体調を崩し、この地で診察を受ける必要が出てきたからではないかという推測が記されており、興味深いところです。
 当時、人首町には医師は一人しかおらず、その唯一の医療機関だった「角南医院」の跡地には、「賢治街道を歩く会」が、下のような説明板を立ててくれています。

角南医院跡

 ここがおそらく、「人首ノ御医者サン」のいた場所だったわけですね。
 それにしてもこの場所にかぎらず、ここ人首町の賢治ゆかりの地には、「賢治街道を歩く会」が丁寧な解説のついた説明板を数多く立てて下さっているので、ありがたく心強いかぎりです。

 次に、1924年に賢治が来た際には、3月24日付けで「五輪峠」や「丘陵地を過ぎる」が書かれ、3月25日付けで早朝の情景を描いた「人首町」が書かれているところから、24日の夜は人首で宿泊したと推測され、さらに作品中で描かれている風景が、「菊慶旅館」からの眺めとして無理なく解釈できることから、この時も泊った宿もこの「菊慶旅館」だったのだろうと推測されているのです。

菊慶旅館

 上の写真が、明治時代に創業し、2011年の東日本大震災まで旅館として営業を続けていた、「菊慶旅館」です。今もどこか何となく、歴史を感じさせる雰囲気が漂います。
 一方、下の写真は、賢治が1回目に宿泊したと同じ1917年に、岩手県知事一行がこの「菊慶旅館」を訪れた時の記念写真です(「賢治街道を歩く会」による説明板より)。

菊慶旅館(1917年)

 賢治が宿泊したと推測されている旅館が、その後もずっと現役で営業していて、つい最近廃業されたというのはとても残念ですが、その後改築されているものの旅館としての建物は今も残存していますから、賢治ファンにとっては貴重な場所と言えます。

 詩碑が建てられているのは、街道から少し南西に入ったところにある「壇ヶ丘」の上の、「久須師神社」です。賢治が「人首町(下書稿(一))」で、「……丘には杉の杜もあれば/赤い小さな鳥居もある……」と描いた「赤い鳥居」が、他ならぬこの神社の鳥居であるという縁から、ここに建てられました。
 盛街道からは、細い路地を通して鳥居は下のように見えます。「菊慶旅館」は、ここよりもっと右手の方に位置するのですが、やはり「杉の杜」とともに賢治の目に入ったのでしょう。

久須師神社