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「高洞山」歌碑

1.テキスト

燃えそめし
アークライトは
黒雲の
高洞山を
むかひ立ちたり

     宮沢賢治

2.出典

「短歌655a656」(「歌稿〔B〕」)

3.建立/除幕日

2011年(平成23年)10月30日 建立

4.所在地

盛岡市上米内字中居 上米内駅前

5.碑について

 2011年10月、盛岡市北東部の米内地区の住民グループ「ゆいっこ米内村」を中心とした「宮澤賢治碑を作る実行委員会」の尽力によって、この地に賢治の歌碑が建立されました。碑は、JR山田線の上米内駅の目の前にあり、また「ゆいっこ米内村」の事務所にも隣接しています。
 歌碑の横には、吉見正信さんによる「高洞山と宮沢賢治」という題した説明板が立てられていて、この歌碑が、地元米内地区のシンボルとも言える高洞山を顕彰するために建立されたことを示しています。

 たとえば、盛岡市立米内小学校の校歌には、「望みは高く 高洞の」という一節があり、また盛岡市立米内中学校の校歌には、「春秋薫る 高洞山の」という一節があるのですが、この二つの事実を見るだけでも、この山が米内地区の人々にどれほど親しまれているか、ということがわかります。

 上の説明板にもあるように、このような高洞山を、賢治はいくつかの作品に登場させました。
 碑に刻まれている短歌は、1918年(大正7年)6月、賢治が23歳で盛岡高等農林学校の研究生をしていた頃に詠まれたもので、この時賢治は盛岡市中心部の岩手公園から、夕暮れのアークライトとともに、北東郊外の高洞山を眺めていました。

 下の写真は、盛岡駅裏の「マリオス」20階の「展望室」から、高洞山を眺めたところです。中央の少し左、NTT東日本の赤と白の電波塔の向こうの小さな三角に出っ張った山頂が、高洞山です。

 また、下の写真は米内地区側の上米内浄水場から、高洞山を眺めたところです。

 賢治は、上の短歌を含む連作の中で、高洞山周辺の峰々の上空を飛翔するイメージを、次のように詠っています。

黒みねを
はげしき雲の往くときは
こゝろ
はやくもみねを越えつつ。

黒みねを
わが飛び行けば銀雲の
ひかりけはしくながれ寄るかな。

 このように、高洞山の上を風のように飛ぶイメージの記憶が、後に童話「風野又三郎」の、次の箇所に生かされたのでしょう。

 ドッドド ドドウド ドドウド ドドウ、
 甘いざくろも吹き飛ばせ
 酸っぱいざくろも吹き飛ばせ
 ホラね、ざくろの実がばたばた落ちた。大工はあわてたやうな変なかたちをしてるんだ。僕はもう笑って笑って走った。
 電信ばしらの針金を一本切ったぜ、それからその晩、夜どほし馳けてここまで来たんだ。
 ここを通ったのは丁度あけがただった。その時僕は、あの高洞山のまっ黒な蛇紋岩に、一つかみの雲を叩きつけて行ったんだ。そしてその日の晩方にはもう僕は海の上にゐたんだ。

 これは、賢治の心の片隅に、末永く印象を残していた山の一つだったのだと思います。