靴革の料理

 『春と修羅』に、「栗鼠と色鉛筆」という詩があります。

  栗鼠と色鉛筆

樺の向ふで日はけむる
つめたい露でレールはすべる
靴革の料理のためにレールはすべる
朝のレールを栗鼠は横切る
横切るとしてたちどまる
尾は der Herbst
 日はまつしろにけむりだし
栗鼠は走りだす
  水そばの苹果緑(アツプルグリン)と石竹(ピンク)
たれか三角やまの草を刈つた
ずゐぶんうまくきれいに刈つた
緑いろのサラアブレツド
  日は白金をくすぼらし
  一れつ黒い杉の槍
その早池峰(はやちね)と薬師岳との雲環(うんくわん)は
古い壁画のきららから
再生してきて浮きだしたのだ
  色鉛筆がほしいつて
  ステツドラアのみぢかいペンか
  ステツドラアのならいいんだが
  来月にしてもらひたいな
  まああの山と上の雲との模様を見ろ
  よく熟してゐてうまいから

 日付は1922年10月15日、『春と修羅』の配列において、この次には「永訣の朝」が来るという、緊張をはらんだ場所に位置しています。
 しかし次の作品に比べてこの作品の方は、朝露に濡れた鉄道線路に現れた栗鼠の仕草を見守り、また周囲に広がる秋らしい風景を静かに愛でているという穏やかさが、空気を満たしています。

 ところで、私がよく意味がわからないのは、本文3行目に出てくる「靴革の料理のためにレールはすべる」という一節です。
 前の行にも、「つめたい霧でレールはすべる」とあり、このレールは朝露に濡れて日の光を浴びて輝き、とても滑らかな表面を見せているのでしょうが、それにしても、<靴革の料理のために>レールがすべるというのが、よくわかりません。
 レールの滑らかさが、賢治に「何か」を連想させたのかとも思われますが、「靴革の料理」とは、いったいどう関係があるのでしょうか?

 ただ、とりあえずここで「靴革の料理」と言われれば、まず誰もが連想するのは、チャップリンの映画『黄金狂時代』の一場面でしょう。金鉱探堀で一攫千金を目ざしてアラスカへやってきたチャーリーは、雪に閉ざされて食べる物も底を尽き、ついに自分の革靴を煮込んで食べるのです。

 チャップリンの真骨頂とも言うべき軽妙な演技は、何度見ても飽きませんね。これは、米タイム誌が選ぶ「印象に残る映画のなかの食事シーンベスト10」にもランクインしています。
 そしてさらに、賢治がチャップリンのことを大好きで、「後年の賢治作品にも影響をあたえた」と弟の清六さんが証言していることを考えると、「栗鼠と色鉛筆」に出てくる「靴革の料理」というのは、チャップリン映画の上記の場面と関連しているのだろうと、どうしても推測したくなります。

 子供のころから今まで、映画で私と兄とに一番強く有難い影響をあたえてくれた人はチャールズ・チャップリンでしょう。
 マック・セネットという人がグリフィス映画をつくったといわれている明治の終りころからいままでの間に、チャップリンはあの独特のスタイルでいつも人間味豊かに私どものそばに居たのでした。そばにいたというよりは、いつでも一歩さきを鵞鳥のようによちよちと歩き、底に深い悲しみを潜めながら私どもを笑わせ、ほんとうの喜劇と芸術とはどんなものかを教えてくれました。(宮沢清六「映画についての断章」)

 ところが、チャップリンの『黄金狂時代』の公開日を調べてみると、世界で最初に封切られたのは、1925年6月26日にロサンゼルスのローマンズ・エジプシャン劇場においてだったのです。日本公開は、その半年後の1925年12月17日からでした。
 一方、「栗鼠と色鉛筆」がスケッチされたのは、前述のように1922年10月15日です。まあこれは、作品の最初の形態が書きつけられた日付であって、賢治が「靴革の料理」という言葉を登場させたのはこれより後であってもよいのですが、『春と修羅』が刊行されたのは1924年4月20日で、やはり『黄金狂時代』の公開よりも、1年以上早いのです。
 Wikipedia によれば、『黄金狂時代』の撮影が始まったのは、1923年の冬だったということで、しかも最初に上記の山小屋で革靴を食べるシーンから撮られたということですから、この部分の撮影そのものは、『春と修羅』刊行よりも早かった可能性が高いことになります。
 しかし、いくら賢治がチャップリン好きだったとは言え、まだ撮影中の映画のシーンの内容について知るなど、到底不可能です。つまり、賢治この「靴革の料理」という言葉を、チャップリンの『黄金狂時代』のあのシーンから着想したということは、ありえないんですね。

 というわけで、「靴革の料理」の由来はまた行方不明になってしまったのですが、きっと西洋では、チャップリンの『黄金狂時代』よりも以前にも、靴革を煮て食べるということが全くなかったわけではないはずです。
 ということで、少し調べてみると、チャップリンが『黄金狂時代』を構想する上で参考にした題材の一つに、1846年に起こった「ドナー隊の悲劇」という出来事があり、この中に「靴革を食べる」というエピソードも登場するのだということです。
 下記は、「チャーリー・チャップリン公式サイト(英語版)」から、「『黄金狂時代』の映画化」という記事の冒頭の、拙訳です。

『黄金狂時代』の映画化
はじめに
 チャーリー・チャップリンは、最も喜劇の題材になりそうもないものをもとに、『黄金狂時代』を作り上げた。最初の着想は、1896年のクロンダイクのゴールドラッシュを描いた立体画を見た時に得られたという。そこには、黄金郷の入口のチルクート峠に向かって果てしなく続く金鉱探したちの行列が描かれていて、チャップリンはこの情景にとりわけ強く印象づけられた。また、ちょうどその頃彼は、1846年に起こった「ドナー隊の悲劇」について書かれた本を、たまたま読んでいた。これは、移民たちの隊列がシエラネバダ山脈で雪に閉ざされ遭難した事件で、この時移民たちは、自分の革靴(moccasins)や、死んだ仲間の遺体まで食べざるをえない状況に追い込まれたのである。
 チャップリンは、悲劇とお笑いとは決して遠く隔たったものではないという自らの信念をもとに、これらの窮乏と恐怖の物語を、喜劇に造りかえようとした。彼は、あのおなじみの浮浪者のキャラクターを金鉱探しにして、寒さや飢えや孤独やグリズリーベアの襲撃をも恐れない、勇敢な楽天家たちの集団に加わらせたのである。

 そして、実際チャップリンは、「ドナー隊の悲劇」の舞台であるシエラネバダ山脈で、この映画の一部のロケを行ったのだそうです。

 つまり、賢治が「栗鼠と色鉛筆」を書く前に、チャップリンの『黄金狂時代』を見ていたということはありえないわけですが、1846年に起こったドナー隊の遭難について、賢治が何らかの形で耳にしていた可能性はないとは言えず、その際に「靴革の料理」というものを知っていたのかもしれないのです。
 となると、チャップリンも賢治も、同じ事件に取材して、創作を行ったということになります。

 いずれにせよ、太平洋をはさんだ両者が、この「靴革の料理」を作品へに導入していった時期は、上に見たようにほとんど同時期であるのが興味深いところですが、はたして賢治の方の由来はどうだったのでしょうか…。