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貝の火と父親

 「貝の火」というお話を読んだ後には、何となく不条理な感覚が残ってしまいませんか。
 野原に出ると悦んで、一人でぴんぴん踊っていた無邪気な子兎ホモイは、年相応に愚かでもあり、子どもらしい万能感の手綱を取りかねていました。「貝の火」の宝珠を授かってからも、むぐらをいじめたり、狐に騙されて鳥の捕獲を容認したり、思い上がったことを言ったりもしましたが、結局そのために最後には宝珠を失い、嘲笑され、失明してしまいます。
 もちろんホモイに落ち度があったのは確かですが、しかしこれでは、犯した罪と罰の重さが不釣り合いではないか、いたいけない子どもが、なぜこんな目に遭わないといけないのかなどと、やり場のない気持ちも起こります。

 この物語が、「因果応報」という掟の厳しさを描いていることには、誰しも異論はないでしょう。冒頭でホモイがひばりの子を救助したという「因」に対して、貝の火を授かるという「果」があり、その後の過ちの集積という「因」に対して、最後で貝の火を失うという「果」があるというのが外枠で、これがお話の骨格をなしています。
 しかし、きっと皆さんもお気づきでしょうが、その二つの大きな因果にはさまれた途中経過においては、ホモイの行動(因)と、貝の火の様子(果)とは、なぜかほとんど相関していないのです。そればかりか、ホモイが悪いことをして父に叱られ、「もう曇ってしまったぞ」とか「今日こそ砕けたぞ」とか言われるごとに、逆に貝の火はいっそう美しく燃えたのです。

 ここが、この物語に不条理さを感じてしまう、もう一つの点なのだろうと思います。
 「貝の火」は、前日までは「今日位美しいことはまだありませんでした」という様子だったのに、ある日突然「小さな小さな針でついた位の白い曇り」が現れ、その日の夜中には、もう火は消えていました。もしも「貝の火」が、もう少し早くからホモイの行動に対して警告を与えてくれていたら、彼も「慢」に陥らずに反省して行いを改めたでしょうし、注意をしていた父親の威信が揺らぐこともなかったでしょう。
 ホモイも父も、「貝の火」に複雑に燃える光の紋様を読み解こうとして、毎日その様子を注意深く観察します。そこには、ホモイの行いを判断するための何らかのメッセージが表現されているのではないかと、期待したのです。
 しかしこの方法は、見事に裏切られました。貝の火の様子は、ホモイへの評価を映す鏡ではなかったのです。

 では、それは何を映していたのか?という疑問が浮かびますが、ここで下記に、物語における「ホモイの行動」「父の行動」「貝の火の様子」を、一日ごとに表にしてみました。

 

ホモイの行動 父の行動 貝の火の様子
第一日

皆の尊敬を集めるようになり、自分は「大将」になったと考えた。狐を少尉に任命する。

朝はすでに外出していた。夜は家族一緒に御馳走を食べる。

玉の美しいことは昨夜よりももっとです。

第二日

鈴蘭の実を集めるよう母に言われるが、大将がそんなことをするのはおかしいと、代りにむぐらに命令する。日光に弱いむぐらにはできず、怒って脅す。

ホモイがむぐらを脅したこと、りすに過量の鈴蘭の実を集めさせたことを、強く叱る。貝の火は曇ってしまっているだろうと言う。

一昨夜よりももっともっと赤くもっともっと速く燃えてゐるのです。

第三日

狐が盗んできた角パンを受けとり、今後は狐が鶏を捕るのを咎めないよう約束させられる。

盗品の角パンを見て怒って踏みにじり、ホモイを叱る。玉は砕けているだろうと言う。

お日さまの光を受けてまるで天上に昇って行きそうに美しく燃えました。

第四日

狐にそそのかされ再びむぐらの家族をいじめる。
父に怒られるが、自分は生まれつき貝の火と離れないようになっていると言う。
夜、高い錐のような山の頂上に片足で立っている夢を見る。

ホモイがむぐらをいじめるのを見つけてむぐらを助け、ホモイを叱る。
今日こそ貝の火は砕けたぞと言うが右記のように美しいのを見た後、狐の角パンをみんなで食べる。

今日位美しいことはまだありませんでした。赤や緑や青や様々の火が烈しく戦争をして、地雷火をかけたり、のろしを上げたり、又いなずまが閃いたり、光の血が流れたり・・・。

第五日

動物園を作ろうと狐に言われ、深く考えずに興味を持つ。
狐が網で捕えた鳥たちに懇願されて解放してやろうとするが、狐に脅されて逃げ帰る。

狐が捕えた鳥のことはホモイから知らされていない。狐の角パンを家族で食べる。
曇った貝の火を漬けておくために、油を出してやる。

一所小さな小さな針でついた位の白い曇りが見える。

第六日

夜中に眼をさまして、貝の火がもう燃えていないことに気づき、泣き出す。狐が網で鳥を捕えていることを父に話す。
狐と戦うよう父に言われ一緒に野原へ行きくが、何もできなかった。
家で鳥たちに貝の火を見せた後、玉の破片で失明する。

狐が鳥を捕えていることをホモイから聴き、狐と対決して鳥を逃がしてやる。貝の火が曇ってしまったことを鳥たちに言う。
失明したホモイを慰める。

夜中に火は消えていた。
一部始終が終わった後、砕けてホモイの目に入り、失明させた。
その後またもとの玉に戻る。


 第一日はともかく、第二日以降のホモイは悪いことばかりしています。しかし、貝の火はそれにおかまいなく、美しく燃えつづけます。
 これに対して、お父さんの行動はずっとほんとうに立派です。つねにホモイの行動に注意を払い、問題があれば厳しく叱ります。第六日には、一人で「いのちがけ」で狐と対決し、捕えられていた鳥たちを助けるという勇敢さも見せます。
 その行動は父親として模範的にも思えますが、全体の中でもしも何か責められるべき点があるとすれば、第四日と第五日の夜に、狐が盗んできてホモイに渡した角パンを、家族で一緒に食べてしまうところです。第三日には、盗んで来たものは食べられないと言って、「土になげつけてむちゃくちゃにふみにじる」といういさぎよい態度を見せたのに、第四日には貝の火が美しく燃えつづける様を見て、何か自信をなくしたように、狐の賄賂を受け入れてしまったのです。

 さて、この表を眺めていると、結局「貝の火」の様子は、ホモイの行動にではなくて、実は父親の行動の方に相関していたのではないかと、思えてきます。
 第二日からホモイはむぐらをいじめますが、父はそんなホモイを厳しく叱ります。第三日の父は前述のように、狐が盗んで来た角パンを断固として拒否し、ここでも正義を貫きます。
 第四日にも、ホモイと狐がむぐらをいじめていたところへ、父が介入して可哀そうなむぐらを助けてやります。父子が帰宅した時点では、貝の火はこれまでで一番というほど美しく燃えていましたが、その後に父は、狐の角パンを食べるという過ちを、初めて犯します。この後の貝の火の様子は、翌日までわかりません。
 第五日の父は、昼間のホモイの行動のことは知りませんが、貝の火に小さな曇りができていることを告げられ、気を揉みつつ熱心に磨きます。しかし、曇りはとれるどころかだんだん大きくなってしまいました。そして、この日も前日に続き、狐の角パンをみんなで食べたのです。
 貝の火の光が消えてしまったのは、その晩でした。

 つまり、父親が正しい行動をしていた間は、(ホモイの行動に関係なく)貝の火はますます美しく燃え、父が過ちを犯した時に一点の曇りが現れ、まもなく火が消えたのです。こう考えると、少なくとも「因果関係」のつながりとしては、わかりやすくなります。

 この「貝の火」という物語では、主人公であるホモイが、最後まで父親への依存から抜け出せずにいるところに、不満を感じるという意見もあります。
 一方、これをホモイというよりも「父親の物語」として見ると、そこにはまた別の情景が現れてくるようにも思われます。