老巡礼の受難

 賢治の最初期の童話「蜘蛛となめくぢと狸」の初めの方に、蜘蛛がカゲロウを食べてしまう場面があります。

「ここはどこでござりまするな。」と云ひながらめくらのかげらふが杖をついてやって参りました。
「ここは宿屋ですよ。」と蜘蛛が六つの眼を別々にパチパチさせて云ひました。
 かげらふはやれやれといふやうに、巣へ腰をかけました。蜘蛛は走って出ました。そして
「さあ、お茶をおあがりなさい。」と云ひながらかげらふの胴中にむんずと噛みつきました。
 かげらふはお茶をとらうとして出した手を空にあげて、バタバタもがきながら、
「あわれやむすめ、父親が、
旅で果てたと聞いたなら」
と哀れな声で歌ひ出しました。
「えい。やかましい。じたばたするな。」と蜘蛛が云ひました。するとかげらふは手を合せて
「お慈悲でございます。遺言のあひだ、ほんのしばらくお待ちなされて下されませ。」とねがひました。
 蜘蛛もすこし哀れになって
「よし早くやれ。」といってかげらふの足をつかんで待ってゐました。かげらふはほんたうにあはれな細い声ではじめから歌ひ直しました。
「あわれやむすめちゝおやが、
 旅ではてたと聞いたなら、
 ちさいあの手に白手甲、
 いとし巡礼の雨とかぜ。
 もうしご冥加ご報謝と、
 かどなみなみに立つとても、
 非道の蜘蛛の網ざしき、
 さわるまいぞや。よるまいぞ。」
「小しゃくなことを。」と蜘蛛はたゞ一息に、かげらふを食ひ殺してしまひました。そしてしばらくそらを向いて、腹をこすってからちょっと眼をぱちぱちさせて「小しゃくなことを言ふまいぞ。」とふざけたやうに歌ひながら又糸をはきました。

 ただでさえ弱々しい体つきで、成虫になってからは「一日の命」と言われるカゲロウが、盲目の巡礼となっている姿はまさに哀れを誘う設定です。まだ若い賢治の、微笑ましくも巧みなところです。そして、その哀れなカゲロウを、蜘蛛が「たゞ一息に…食ひ殺してしま」う場面は、いかにも蜘蛛の残酷さを際立たせます。

 私は、このカゲロウが巡礼の旅の途中でこんな可哀想な最期を遂げること、またその「むすめ」も巡礼をしているらしいところから、中里介山の超長編小説『大菩薩峠』の冒頭の場面を連想しました。
 江戸から甲斐へ抜ける「甲州裏街道(青梅街道)」において、甲斐と武蔵の国境に位置する大菩薩峠の頂に、老人と孫娘の巡礼がたどり着きます。一休みして二人でお弁当を食べるために、孫娘は水を汲みに行きました。

 女の子は、老人の手から瓢を取って、ついこの下の沢に流るる清水を汲もうとて山路をかけ下ります。
 老人は空しくそのあとを見送って、ぼんやりしていると、不意に背後から人の足音が起ります。
「老爺(おやじ)」
 それはさいぜんの武士でありました。
「はい」
 老爺は、あわただしく居ずまいを直して挨拶をしようとする時、かの武士は前後を見廻して、
「ここへ出ろ」
 編笠も取らず、用事をも言わず、小手招きするので、巡礼の老爺は怖る怖る、
「はい、何ぞ御用でござりまするか」
 小腰をかがめて進み寄ると、
「あっちへ向け」
 この声もろともに、パッと血煙が立つと見れば、なんという無残なことでしょう、あっという間もなく、胴体全く二つになって青草の上にのめってしまいました。

 カゲロウの巡礼が、「胴中にむんずと」蜘蛛に噛みつかれたように、こちらの老巡礼は、胴体を真っ二つに斬られてしまいます。
 ここで登場した「武士」は、『大菩薩峠』の主人公である机龍之助でした。その剣は「音無しの構え」と言われ、じっと構えて静かに相手の動きを待ち、相手が出てきたところを打ちのめすというものです。これも、蜘蛛が音もさせずにじっと網を張って獲物を待ち構え、網にかかると素早く仕留めるのと、似ていなくもありません。
 ただし龍之介の方は、遺言を唄わせるどころか、文字通り一瞬にして惨殺してしまいます。まさに「修羅」の行状で、これに比べるとさっきの蜘蛛などは、まだしも慈悲深く見えてしまいます。

 それに何より、蜘蛛の方は自分が生きるために獲物を捕食しただけで、これはまあ犠牲になるカゲロウからすれば「非道の蜘蛛」と言うのはやむをえないとしても、客観的に見れば自然の摂理です。机龍之助が新しい刀の切れ味を「生胴」で試すというだけのために、何の罪もない老巡礼を斬り捨てたのとは、わけが違います。
 蜘蛛が獲物を食べてはいけないとなると、「よだかの星」のよだかや、「銀河鉄道の夜」で語られる蠍のように、自らの命を捨てるしかないのですが、この辺が賢治の感覚の独自なところと言わざるをえません。仏教にも「捨身飼虎」という逸話などがあったりしますが、賢治自身にはこういう理屈以前の直接的な感覚として、「どんな形でも他の生物を殺したくない」という気持ちがあったのだろうかと思います。


 それはさておき、哀れなカゲロウが食べられてしまう場面で印象的なのは、カゲロウが「遺言」として即興で唄う、謡いのようなものです。

あわれやむすめちゝおやが、
旅ではてたと聞いたなら、
ちさいあの手に白手甲、
いとし巡礼の雨とかぜ。
もうしご冥加ご報謝と、
かどなみなみに立つとても、
非道の蜘蛛の網ざしき、
さわるまいぞや。よるまいぞ。

 賢治には、こういう調子の韻文ならささっと書けてしまう才能があったようで、そこには高尚な響きと言うより大衆芸能の雰囲気があるところが、また秀逸です。
 一方、『大菩薩峠』の方でも、女芸人のお玉が唄う哀愁に満ちた「間の山節」というのが出てきます。「間の山」とは、伊勢神宮の外宮と内宮の間の小さな丘で、それこそ「巡礼の道」でした。そのあたりの街道で、参詣者の投げ銭を求める女芸人が三味線に乗せて唄っていたのが、「間の山節」です。

夕べあしたの鐘の声
寂滅為楽と響けども
聞いて驚く人もなし
(合の手)
花は散りても春は咲く
鳥は古巣へ帰れども
行きて帰らぬ死出の旅

 伊勢神宮参道で唄われていたにしては、「寂滅為楽」などあまりに仏教的な内容なのが面白いですが、この歌詞を見れば賢治ファンの方ならあるいはピンとくるのは、賢治が作詞して歌っていたという「大菩薩峠の歌」でしょう。その賢治による歌詞の「日は沈み鳥はねぐらにかへれども/ひとはかへらぬ修羅の旅」という箇所が、「間の山節」で「鳥は古巣へ帰れども/行きて帰らぬ死出の旅」を下敷きにしているのは、明らかです。

 若い頃の賢治は、中里介山『大菩薩峠』の愛読者で、歌まで自作して唄っていたわけですが、その影響は、「蜘蛛となめくぢと狸」の一場面にも影響を与えていたのではないかと、ふと思った次第です。

 よろしければ最後に、VOCALOID・Sachiko による「大菩薩峠の歌」をどうぞ。

二十日月かざす刃は音無しの
          虚空も二つときりさぐる
                    その龍之助

風もなき修羅のさかひを行き惑ひ
          すすきすがるるいのじ原
                    その雲のいろ

日は沈み鳥はねぐらにかへれども
          ひとはかへらぬ修羅の旅
                    その龍之助