古今東西を問わず、政治家というのは腐敗するものだという固定観念があるようで、今ではマスコミが「政治と金」という呪文を繰り返すだけでも、そこに確実に腐敗が存在するという雰囲気が見事に立ちのぼります。もっとも政治家に限らず、最近は相撲界でも地方公務員でも企業でも検察官でも、どこでも腐敗のネタには事欠かないようで、多くの人にとってはちょっと食傷気味の話題かもしれません。
宮澤賢治の詩や童話の多くは、こういうテーマとはまったく無関係な世界が描かれているのですが、中にごく一部ですが、そんなモチーフも出てきます。
賢治の最初期の童話「蜘蛛となめくぢと狸」において、飢餓の底からがむしゃらに這い上がってきた「赤い手長の蜘蛛」は、ついに妻や子供とともに立派な網を構え、「虫けら会の相談役」を依嘱されるまでに昇り詰めます。ただその過程では、かなり手荒なことまでやってきたようですね。
そして、すでにひとかどの名士となった蜘蛛が、さらなる高みを目ざそうとした時、突如破局が訪れます。
それから蜘蛛は、もう一生けん命であちこちに十も網をかけたり、夜も見はりをしたりしました。ところが困ったことは腐敗したのです。食物がずんずんたまって、腐敗したのです。そして蜘蛛の夫婦と子供にそれがうつりました。そこで四人は足のさきからだんだん腐れてべとべとになり、ある日たうたう雨に流れてしまひました。
悪いことをしてきた奴が、自業自得で腐って流れてしまう、という結果になったわけです。小沢俊郎氏は、この蜘蛛を「商業資本家」の象徴と解読していますが、獲物の多さを追求するだけでなく、「虫けら会の相談役」になることを元同級生のなめくじに自慢するところなど、政治的な「力」にこだわっていた面もあるようです。
蜘蛛の結末はちょっと哀れな感じもしますが、これ以外にも同じようなモチーフが登場する作品が、いくつかあります。
一つは、「詩ノート」にある「政治家」という草稿。
一〇五三
政治家
一九二七、五、三、あっちもこっちも
ひとさわぎおこして
いっぱい呑みたいやつらばかりだ
羊歯の葉と雲
世界はそんなにつめたく暗い
けれどもまもなく
さういふやつらは
ひとりで腐って
ひとりで雨に流される
あとはしんとした青い羊歯ばかり
そしてそれが人間の石炭紀であったと
どこかの透明な地質学者が記録するであらう
「さういふやつらは/ひとりで腐って/ひとりで雨に流される」というのですから、「赤い手長の蜘蛛」の最期と同じですね。こんどの悪役は、ストレートに「政治家」です。
それからもう一つは、やや簡略化された形ですが、「なめとこ山の熊」に出てくるあの嫌味な荒物屋です。
けれども日本では狐けんというものもあって狐は猟師に負け猟師は旦那に負けるときまっている。ここでは熊は小十郎にやられ小十郎が旦那にやられる。旦那は町のみんなの中にいるからなかなか熊に食われない。けれどもこんないやなずるいやつらは世界がだんだん進歩するとひとりで消えてなくなっていく。
この世の仕組みは、「狐けん」のように公平にはまわっていませんが、それでも「こんないやなずるいやつらは世界がだんだん進歩するとひとりで消えてなくなっていく」と、賢治は言うのです。消えていく原因が、法治システムや不正を糺そうとする何らかの社会運動によるのではなく、「ひとりで」消えて流れてしまうというのが、3つの例に共通するところです。
また「春と修羅 第二集」の「五輪峠」の前半には、
それで毎日糸織を着て
ゐろりのヘりできせるを叩いて
政治家きどりでゐるんだな
それは間もなく没落さ
いまだってもうマイナスだらう
という箇所があって、その辺の地主が「政治家きどり」でいるようですが、この人物に対しても賢治は、「間もなく没落さ」と、なぜか根拠も示さず予言しています。
というような感じで、このようにいくつかの違った時期の作品に、共通するモチーフが登場しているとなると、何かその背景には、元になった賢治の経験なり思想があったのではないかと、考えてみたくなります。
そこで、上の作品中で最も古い「蜘蛛となめくぢと狸」が書かれた時期を確認すると、宮澤清六著「兄賢治の生涯」の中には、次のような記述があります。
大正七年に二十二歳で農林学校本科を卒業したが、つづいて地質や土壌を研究するために学校に残り、四月から関博士の指導で、稗貫郡の土性調査をはじめた。同級の小泉多三郎、神野幾馬という人といっしょに、西は「なめとこ山」のもっと奥の深山に分け入り、東は高山植物の宝庫、海抜一九一四米の早池峯山までを調査したが、これもまた後の農村関係の仕事と関聯を持つことになった。
この夏に、私は兄から童話「蜘蛛となめくぢと狸」と「双子の星」を読んで聞かせられたことをその口調まではっきりおぼえている。処女作の童話を、まっさきに私ども家族に読んできかせた得意さは察するに余りあるもので、赤黒く日焼けした顔を輝かし、目をきらきらさせながら、これからの人生にどんな素晴らしいことが待っているかを予期していたような当時の兄が見えるようである。
すなわち、1918年(大正7年)夏までには、「蜘蛛となめくぢと狸」は完成していたというわけですね。
そこで、この年までに何か日本で上のようなモチーフと関連したような政治的な出来事があったのかということを調べてみます。Wikipedia によれば、この当時に「政治の腐敗」が問題となった事件として、次のような出来事がありました。
1902年(明治35年): 教科書疑獄事件
1908年(明治41年): 日本製糖汚職事件
1914年(大正3年)1月: シーメンス事件
5月: 大浦事件
1924年(大正13年): 復興局疑獄事件
1925年(大正14年): 陸軍機密費横領問題
この中に、賢治の「蜘蛛となめくぢと狸」に影響を与えた事件があるとすれば、その規模と社会的衝撃の大きさからも、1918年の少し手前に起きたという時期からも、1914年1月~3月に政界を揺るがした「シーメンス事件」が、最も気になるところです。この年18歳になる賢治は、盛岡中学を卒業して、岩手病院に入院する直前という頃でした。
さてシーメンス事件とは、ドイツの大企業シーメンス社が、無線電信局の発注をめぐって日本の海軍高官に贈賄を行っていたことが発覚したことに、端を発します。たまたま当時の山本権兵衛内閣は、首相の山本が海軍大将であるのをはじめ海軍を基盤としており、増税とともに海軍を拡張する予算を国会に提出していたため、税負担への国民の不満もこれを契機に一気に爆発して、政界を巻き込んだ一大騒動に発展していったのです。
新聞は連日、海軍の腐敗を書き立て、野党は衆議院に内閣弾劾決議案を提出しますが、これが否決されると、日比谷公園の「内閣弾劾国民大会」に集まっていた4万人とも言われる民衆は憤激して国会議事堂を包囲し、構内に入ろうとして官憲と衝突したということです。
結局この後、山本内閣は総辞職に追い込まれることになります。しかし政界の混乱はこれでも収まりません。総辞職を受け元老会議は、貴族院議長で徳川宗家16代当主徳川家達を後継首班に推薦しますが、徳川一門には明治政府が徳川を「朝敵」としたことをまだ根に持っている部分もあって、結局徳川家達は首相就任を辞退します。
続いて元老会議は、枢密院顧問官の清浦奎吾を推し、清浦は大正天皇から組閣の大命降下を受けます。しかし、超然主義の清浦に対しては立憲政友会と立憲国民党の二大政党が野党となることを宣言、さらに予算復活を拒否された海軍も非協力の態度をとったことから、7日後に清浦はやむなく組閣を断念する事態に追い込まれました。結局その後、大隈重信に首相のお鉢はまわってきました。
余談ながらこの時、清浦奎吾が組閣断念の直前に記者団にぼやいたという言葉が伝えられています。「大和田の前を通っているようなもので、匂いだけはするが、御膳立てはなかなか来ない。」
「大和田」というのは、当時東京で人気の鰻屋の名前(現在も営業中)で、「前を通ると旨そうな匂いはするが、中に入れば混雑していていつまで待っても鰻丼が食べられない」という有様を、組閣の状況に喩えたものでした。これを受けて世間では、鰻の匂いを嗅がされた(大命降下)だけで結局は鰻丼(首相の地位)にありつけなかった清浦を嘲笑して、これを「鰻香内閣」(匂いだけで現実には味わえない幻の内閣)と呼んだということです。
いずれにせよ、徳川家達の内閣も清浦奎吾の内閣も、国民が何もしないうちに「ひとりで流れてしまった」わけですね。
そこで私は、賢治の詩「政治家」の、「さういふやつらは/ひとりで腐って/ひとりで雨に流される」というところを連想してしまうのです。
しかし本当は、上のような連想を補強するためには、もっときちんとした調査をしなければなりませんね。賢治が目にしたかもしれない当時の新聞記事における表現なんかも調べられればよいのでしょうが、とりあえず今回はそのような時間も素材もなかったので、思いついたことのみ書いてみました。
ところで、冒頭にも触れたように政治の腐敗というのは時代を越えた普遍的な問題でしょうが、くしくも最近また、100年近く前のシーメンス事件を彷彿させるような事件がありました。
アメリカ合衆国の連邦法の一つとして、「連邦海外腐敗行為防止法」という法律があるそうです。これは、アメリカで上場している企業が、外国の公務員や政党や候補者に賄賂を贈ることを禁止するものですが、シーメンス社は2001年から2007年の間に、南米、アジア、中近東、アフリカの諸国の公務員4000人以上に対して約14億ドルの賄賂を支払ったとされ、このため同社は連邦証券取引委員会に対して3億5000万ドルの課徴金を、司法省による刑事訴追に対して4億5000万ドルの罰金を、さらにミュンヘン検察庁に対して2億100万ドルの罰金を支払ったということです。これは、「連邦海外腐敗行為防止法」違反に関して支払われた金額としては、史上最大のものだということです。
歴史は繰り返すと言いますが、シーメンス社のような世界的大企業でも、ビジネスのためには100年近く昔にやったと似たことを、今日でも行わざるをえないんですね。
たとえ「腐敗行為防止法」というような昔よりも厳しい法律があっても、残念ながら賢治が期待したように、「腐敗してひとりで雨で流れてしまう」というわけには仲々いかないようです・・・。
signaless
「さあ、お茶をおあがりなさい」などと言いながらカゲロウにかぶりつく蜘蛛。「ハッハハ」とへらへらしながら相手をなぶり殺し、なめてペロリと食べてしまうなめくぢ。「なまねこなまねこ」と唱えながらウサギも狼も腹の中に納めてしまう狸…。
若い頃はこれらの描写がこっけいで可笑しく、笑って読んだものですが、大人になるほどこの話に生々しさを感じ、非常にコワイと思うようになりました。
賢治は大正4年8月14日付け高橋秀松あての葉書に「私の町は汚い町であります 私の家も亦その中の一分子でありますから尤もなことになります」と書いています。自分のまわりを見ても新聞を読んでも汚いことばかりで、賢治はもういやでいやでしょうがなくてこんな話を書いたのかもしれません。
確かにこんなことはいつかは腐敗してひとりで雨で流れてしまうのでしょうけど、次から次へとまた新しいのがわいてくるのはどうしようもない愚かな人間の性でしょうか。
hamagaki
signaless 様、こんばんは。お読みいただいて、ありがとうございます。(^_^)
ユーモアの中に、ふと「コワサ」がある、さっきまで楽しく笑っていたはずなのに、急にザワザワっと空気が変わって不気味さが湧いてくる、というのはまさに賢治の世界ですね。「風の又三郎」とか、「ざしき童子のはなし」とか、「ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記」とか・・・。
今回読み直してみて、童話として賢治のほぼ処女作と言ってよいような「蜘蛛となめくぢと狸」に、すでに社会に対する鋭い風刺、たんに動物を擬人化するのではなく、動物自身の視点に立ったような独特の描写、さらに全体を包むユーモアとペーソスがたっぷり盛り込まれいてることに、あらためて感動しました。
そしてご指摘のように、若々しい賢治の目は、多くの作品に奇跡的に描かれているような「美しいもの」だけでなく、「汚いもの」も、しっかりと見据えていたんですね。
mishimahiroshi
絶対的な宇宙の意志というようなものを信じていたという点で賢治は宗教的人格だったのだろうと思います。
賢治の作品にはライオンや王様など絶対権力者によって物事があっさり解決してしまうことが多い。そこに賢治のよろしさと限界を感じます。
結局、賢治は何一つ解答を出していないという批判もありますが、では夜鷹の苦しい問いに答えは見つかるのかと考えると、賢治の苦しさも分かります。
賢治の問いかけは普遍的であり、これもまた賢治が読み継がれる理由の一つだと思います。
まとまりなくすみません。クライアントが来ましたので仕事に入ります。
hamagaki
mishimahiroshi 様、こんばんは。お忙しいところ、書き込みいただいてありがとうございます。
そうですね・・・。賢治はそういう信念を持っていた人だったんですよね。ご指摘いただいた「宇宙意志」という言葉が出てくる小笠原露あて書簡の下書きを、長くなりますが引用させていただきます。
世界が偶然盲目的に動いているのではなく、背後で「宇宙意志」が働いていると考える時、その当時の社会の矛盾も不正も、私たちの有限の目から見たら「ひとりで」、必ず解決されていくのだ、と信じていたのでしょう。
賢治の文学を、「解答」が出されていないと言って批判するのは、ちょっと酷というもんですよね。答えを求めるなら、政治学とか社会学とか倫理学とか、そういう問題を学問的に追求している人に向かって言うべきでしょうし、そのような学者でも、今日に至る研究の積み重ねの挙げ句、まだ答えは出せていません。数学の解答のような意味での答えは、きっと今後も出ないのでしょう。
文学は、時にそのような問題の所在を象徴的に浮き彫りにしてくれることで、私たちに大きな示唆を与えてくれます。賢治の作品は、そういう深い問題意識を、不思議に美しく洗練された形で示してくれます。
ご指摘のように、それが賢治の現代にも生きている所以なのだと同感いたします。