石灰岩の男

 これまで宮澤賢治というと、たくさんの魅力的な童話や詩を書いた作家とか、ユニークな農学校教師とか、あるいは自ら百姓になって青年たちと「羅須地人協会」の活動をした農民芸術家、などのイメージが一般的でした。また、「宗教者」や「科学者」としての側面も、もちろん見逃すことはできません。
 そして最近はこれらに加えて、佐藤竜一氏の著書『宮澤賢治 あるサラリーマンの生と死』や、この本の着眼点を生かして制作されたNHK番組「雨にも負けぬサラリーマン ~宮沢賢治 最期の2年半~」が一定の注目を集めた結果、「サラリーマン・宮澤賢治」というちょっと新たな視点が、けっこう話題になっています。実際、晩年に東北砕石工場に勤めていた時期には、賢治は営業マンとして猛然と東北各地を奔走していたのですから……。
 思えば戦時中は、「粗食に耐えて滅私奉公をした偉人」として賞揚されたり、つい先頃までは「エコロジー精神」の先駆者のように言われたりもしましたが、この「平成不況」の只中で苦闘する全国のサラリーマンに対して、「あの宮澤賢治も、創意工夫を凝らしつつ営業活動に情熱をかけた、一人の悩めるサラリーマンだった」という切り口を提示したことは、確かに時宜を得ていたと言えるでしょう。

 ところで「サラリーマン」という言葉は、実は「和製英語」で、本来の英語にはない言葉なんだそうですね。もちろん「サラリーマン」の語源は、英語の「salary=給料・俸給」からきていて、「俸給生活者」「月給取り」のことです。
 さらにこの英語の“salary”の語源をさかのぼると、その昔、古代ローマ帝国において兵士の給料は、塩(岩塩)で現物支給されていたことによるのだそうです。ラテン語で、「塩」は sal、「塩の」という形容詞は salarium ということで、これらが英語の salary の語源であることは確かだそうですが、ただ当時のローマで本当に塩が現物支給されていたという歴史的な証拠は確認されていないようで、若干の議論はあるようです。
 しかし、江戸時代日本の兵士階級である武士も、その収入を「石高」(米の量)で表したり、実際に「扶持米」というのは現物支給されていたということですから、ちょっと似た感じですね。
 いずれにしても、当時の社会における塩や米は、通貨に準ずるほどの重要性と普遍性を備えた物資だったということでしょう。

 ところでここに、働いた給料を、塩でも米でもない「石灰岩」で、現物支給を受ける契約をしていたという男がいます。1931年(昭和6年)に東北砕石工場に勤めていた、宮澤賢治がその人です。
 契約書によれば、「宮沢ヲ技師トシテ嘱託シ報酬トシテ年六百円ヲ炭酸石灰ヲ以テ支払フモノトス」とあり、工場における炭酸石灰の原価は10貫あたり24銭5厘だったということですから、賢治は1ヵ月に50円分=7.65トンもの石灰岩抹を受け取ることになっていたわけです。
 そして、東蔵氏長男の實氏の著書『出会いの人びと』(p.267)によれば、少なくとも「五車」、すなわち「貨物列車5台分」は、現物で支払われたということです。

 それにしても賢治にしてみれば、石灰岩を貨車で花巻駅まで運ばせたとしても、駅に専用倉庫を持っているわけでもないし、町なかの自宅に運んでくるなど不可能なことですから、いったいどうやって受領したのだろうかなどと、要らぬ心配をしてしまいます。
 さらに、塩や米と違って、石灰岩をそのまま家で消費することもできないし、賢治自身が誰よりよく知っているように、お金に換えるには大変な努力を要するし……。

 推測してみるに、おそらく実際のところは、賢治が報酬として受け取った形の石灰岩は、そのまま東北砕石工場の倉庫に置かれていて、賢治が自分の営業活動で石灰肥料の注文を取れた場合には、工場にある彼の所有分の石灰の中から注文先に出荷し、代金は賢治が懐に入れる、という形だったのでしょうか。

 それはともかく、こんなことを考えるうちに私が戯れに思ったのは、どうせなら昨今ちょっと流行りの「サラリーマン・宮澤賢治」という呼称よりも、岩塩ならぬ石灰岩で給与支給を受けていた彼は、むしろ「ライムストーンマン・賢治」と呼んであげた方が、その苦労の実態をより生々しく伝えられるのではないか、などということ……。

 いや、おせっかいな記事でした。