伊藤卓美氏の版画「剣舞の歌」
◇ ◇
折口信夫は、『日本藝能史ノート』(中央公論社)の「念佛踊り」の章に、次のように書いていました(p.88)。
さて、少し話を念佛踊りの方へ向けたい。古は若い者の魂を後ほど怖れなかつた。まびくことも普通だつた。幼兒の死も、少年期から青年期にかけての人々の死も怖れなかつた。この信仰が段々變つて來た。御靈信仰は若くて恨みを呑んでゐる者の死靈であるといふが、若くてといふことは必須の條件ではない。もとは唯鬱屈した魂の祟りである。それが後に曾我兄弟や義經が出てくるに及んで、若さの観念がつきまとうて來るやうになつた。成年戒を受けずに死んだ者の魂は、里に残つてゐて他處へ行かぬので、次第にその扱ひに恐しさを感じて來て、それを祓ふ式を必要として來る。此が念佛踊りの一つの起原である。そして現存の大部分の田樂の基礎は、この念佛踊りである。
岩手県地方に伝わる「剣舞(けんばい)」も、その起源は「念仏踊り」にあります。私は折口信夫の上の文章を読んだ時、はからずも賢治の「原体剣舞連」を連想してしまいました。
賢治は地質調査で通りかかった江刺地方の原体村で、たまたま剣舞を目にして涙が出るほど心を動かされます。岩手で生まれ育った賢治ですから、それまでにも剣舞を見たことはきっと何度もあったはずなのに、この時にそれほどの感動をしたのは、原体村の剣舞はいわゆる「稚児剣舞」で、舞い手はみんな少年たちだったからでしょう。
うす月にひらめきいでし踊り子の異形を見ればわれなかゆかも 593
若者の青仮面の下につくといきふかみ行く夜をいでし弦月 605
剣舞のルーツである念仏踊りが、もとは若くして死んだ者たちの霊を鎮めるための儀式だったとは、賢治はまったく意識していなかったでしょうし、彼が原体村の剣舞を見た際の感動と、このような由緒とは、関係のないことです。
しかし、亡くなった少年たちの鎮魂のために、健やかな少年たちがけなげに踊る・・・。そのような情景を想像した時、私には「打つも果てるもひとつのいのち」という、「原体剣舞連」の最後の一行が、否応なく心に浮かんだのです。
(今日の文章は、理屈のない連想のかけらでした。)
◇ ◇
原体剣舞連(はらたいけんばひれん)
dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah
こんや異装(いさう)のげん月のした
鶏(とり)の黒尾を頭巾(づきん)にかざり
片刃(かたは)の太刀をひらめかす
原体(はらたい)村の舞手(おどりこ)たちよ
鴇(とき)いろのはるの樹液(じゅえき)を
アルペン農の辛酸(しんさん)に投げ
生(せい)しののめの草いろの火を
高原の風とひかりにさゝげ
菩提樹(まだ)皮(かわ)と縄とをまとふ
気圏の戦士わが朋(とも)たちよ
青らみわたるこう気をふかみ
楢と掬(ぶな)とのうれひをあつめ
蛇紋山地(じゃもんさんち)に篝(かゞり)をかかげ
ひのきの髪をうちゆすり
まるめろの匂のそらに
あたらしい星雲を燃せ
dah-dah-sko-dah-dah
肌膚(きふ)を腐植と土にけづらせ
筋骨はつめたい炭酸に粗(あら)び
月月(つきづき)に日光と風とを焦慮し
敬虔に年を累(かさ)ねた師父(しふ)たちよ
こんや銀河と森とのまつり
准(じゅん)平原の天末線(てんまつせん)に
さらにも強く鼓を鳴らし
うす月の雲をどよませ
Ho!Ho!Ho!
むかし達谷(たった)の悪路王(あくろわう)
まっくらくらの二里の洞
わたるは夢と黒夜神(こくやじん)
首は刻まれ漬けられ
アンドロメダもかゞりにゆすれ
青い仮面(めん)このこけおどし
太刀を浴びてはいっぷかぷ
夜風の底の蜘蛛(くも)おどり
胃袋はいてぎったぎた
dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah
さらにただしく刃(やいば)を合(あ)わせ
霹靂(へきれき)の青火をくだし
四方(しほう)の夜(よる)の鬼神(きじん)をまねき
樹液(じゅえき)もふるふこの夜(よ)さひとよ
赤ひたたれを地にひるがへし
雹雲(ひゃううん)と風とをまつれ
dah-dah-dah-dahh
夜風(よかぜ)とどろきひのきはみだれ
月は射(ゐ)そそぐ銀の矢並
打つも果(は)てるも火花のいのち
太刀の軋(きし)りの消えぬひま
dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah
太刀は稲妻(いなづま)萱穂(かやほ)のさやぎ
獅子の星座(せいざ)に散る火の雨の
消えてあとない天(あま)のがはら
打つも果てるもひとつのいのち
dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah
◇ ◇
賢治はこの詩の最後の10行に節を付けて、「剣舞の歌」として唄っていたということで、劇「種山ヶ原の夜」の中でも劇中歌として使用されます。
下のファイルは、その節回しで宮澤清六さんが唄っていたソノシートをもとに、私が以前に編曲したものです(「歌曲の部屋」より)。
♪「剣舞の歌」(MP3:2.17MB)
つめくさ
おはようございます。
梅雨の無い北海道ですが、蒸し暑い日が続きます。
春の寒さで遅れ気味だった作物の成長も追いついて
きて、この(旱魃ではない)日照りに、農家も今は
一安心のようです。
さて、「剣舞の歌」をありがとうございます。
力強くも、しなやかにうねる、あの原体の子供剣舞を
思い浮かべているると、空の雲から子供たちに移った
力が私たちにも移ってきそうな気がして、元気な気持ち
になります。
signaless
『原体剣舞連』は、私も特に好きな詩です。
宇宙の時間から見れば人の一生なんて、一瞬の火花のよう。稚児の舞を見ながら、この子達も自分もその一瞬の同じ時を生きてまた散ってゆくんだと賢治は想ったのでしょうか。
剣舞のルーツが、もとは若くして死んだ者たちの霊を鎮めるための儀式だったとは知りませんでした。
hamagakiさんの「剣舞の歌」は私にとっては最高です。なぜなら、清六さんの歌をもとにされたとのとおり、舞のリズム、おそらく賢治が想像したリズムそのままと思われ、そのうえに素晴らしいアレンジをされているからです。
打つも果(は)てるも火花のいのち
太刀の軋(きし)りの消えぬひま
短い人生だからこそ、ぼんやりしている暇などなくて精一杯生きるべきなんだよ、と美しい詩情と共に農学校の教え子達に伝えたく、また自分にも言い聞かせたのかも知れないなぁ…と思ったりします。
hamagaki
> つめくさ様
お久しぶりです。その後もご健勝のことと存じます。
今は北海道でさえ蒸し暑いんですね。それなら、京都で湿気に悩まされるのも無理もありません。あとしばらく、祇園祭の頃にカラッと晴れ上がるまで、こちらは辛抱の日々です。
それにしても「原体剣舞連」は、ほんとに若いエネルギーがほとばしるような、躍動する<リズム>を持っていますね。
夏を越す勇気がもらえそうです。(^^)
どうか、お身体にお気をつけ下さい。
> signaless 様
賢治が原体村の剣舞を見たのは1917年の9月初めだったのに、「原体剣舞連」を書いたのは1922年でした。
なぜ賢治は5年もたってから、あらためて当時の記憶を作品化しようとしたのか…。その理由は、農学校の生徒である少年たちとともに日々を過ごすうちに、かつて剣舞を踊っていた少年の健気でひたむきな姿が、賢治の心に甦ったからではないかと思います。
そして、signaless 様が上のコメントの最後に書いていただいたまさにそのように、賢治は生徒たちと自分のかけがえのない日々を、愛おしんだのかと思います。
mishimahiroshi
この詩、清六さんが色紙に書いてくださいました。
伊藤氏の作品と同じ所。
前夜お宅を訪問し、仏壇に線香を上げ、胡桃の化石など見せていただき、新潮文庫の新刊が届いたからとサインをしてくだり、思い出せないほど色々なことをお聞きし、写真を撮らせていただき・・・。
翌朝、電話で再訪するように呼び出され、昨夜あの後これを書いたからと、色紙をくださったのです。
あ、これは決して自慢ではありませんよ、、、なんてね。
機会があったらお見せしますね。
あ、君、自慢じゃないったら。。。。
hamagaki
mishimahiroshi 様、こんばんは。
わぁ~、それはすごいですねぇ~。
あの民宿「わらべ」に泊まられた翌朝のことですか? そりゃあいくらでも自慢するだけの値打ちがありますよね~。
「鳥捕り」だったら、ちらっとそれを見てあわてたやうに、「おや、こいつは大したもんですぜ。こいつはもう、ほんたうの天上へさへ行ける切符だ・・・あなた方大したもんですね。」と云うでしょうし、「山男」だったら、「嬉しがって泣いてぐるぐるはねまはって、それからからだが天に飛んでしまふ」でしょうね・・・。
いつか機会があったら、ぜひお見せ下さいね(^^)。