「市場」のあった場所

 下根子桜で独居生活をしていた頃の賢治は、「下ノ畑」で自ら作った野菜や花卉を、朝早くからリヤカーに積んで運び(「〔同心町の夜あけがた〕」)、どこかで売っていたようです。
 「〔水仙をかつぎ〕」(「詩ノート」)には、「ぼくもいまヒアシンスを売ってきたのです」とあり、これが改稿された作品は「市場帰り」と題されていますから、野菜や花を売り買いする「市場」があったのかと思うところですが、ブログ「壺中の天地」の管理人様によれば、この当時の花巻には、「野菜や花の市場は無かった」とのことです。

 それでは、賢治はいったいどこへ作物を運んで売っていたのかということが問題になります。「壺中の天地」管理人様によれば、当時そのようなことが可能であったのは、上町にあった「大正屋」だっただろうということです(「下ノ畑」追記より)。
 「大正屋」というのは、その後私が「壺中の天地」様から教えていただいたところによれば、「田舎のスーパー」のような感じの大きな八百屋で、野菜や花などを農家からも買い上げてくれたのだそうです。

 そして、その「大正屋」があった場所は、下の地図の赤丸の位置でした(『【新】校本全集』第十六巻の「花巻川口町豊沢町町並図(大正十年頃)」に書き込み)。

大正十年頃の豊沢町町並図

 となると、賢治は下根子の畑からリヤカーを引いて、同心町を通り、豊沢橋を渡って花巻川口町に入っていったと思われるのですが、ここで一つ困るのは、大正屋に行くためには真っ直ぐ豊沢町を北に進むのが最短なのですが、この場合には自分の実家(上図の黄色)の前を通ることになってしまうということです。
 独居自炊生活を始めてからは、母親や妹が差し入れを持ってきても頑なに受け取らず、できる限り実家との交流を控えていた賢治のことですから、家の前を頻繁に通って家族と顔を合わせるようなことは、避けようとしたのではないかという気がするのです。

 そのような私の思いを「壺中の天地」管理人様に申し上げると、たしかに自宅前は通りにくいだろうから、豊沢橋を渡って右の方の脇道を入り、祭礼の時の「御旅所」や「朝日座」の前を通り、「裏町」を行くという経路が、賢治さんの通った道として考えられるのではないか、とのことでした。
 「御旅所」や「朝日座」のあったあたりは、今は住宅地となって当時の面影はありませんが、「御田屋町」という町名にかろうじて由緒をとどめています。

 さて、その「大正屋」のあった場所の、現在の様子は・・・?
 先日、花巻に行った折に見てみると、下の写真のようになっていました(南側から撮っています)。

上町北西角

(貴重なご教示をいただいた「壺中の天地」管理人様に、心より感謝申し上げます。)