保阪嘉内が一部を作詞し、おそらく作曲した「勿忘草の歌(保阪家家庭歌)」のDTM演奏を作成してみました。
これは、冒頭の「捕らよとすればその手から小鳥は空へ飛んで行く」という詞句(「習作」参照)にも表れているように、嘉内が作った歌曲の中でも、賢治とのつながりを最も深く漂わせているものです。
昨年10月11日に韮崎市で行われた「銀河の誓い in 韮崎・アザリアの友人たち」の催しの際に「韮崎市民合唱団」が唄われた二部合唱の旋律に、簡単なピアノ伴奏を付けました。歌声は、ソプラノが VOCALOID の Meiko、アルトが VOCALOID2 の初音ミクです。
下リンクから、MP3でお聴き下さい。
【歌詞】(大明敦編著『心友 宮沢賢治と保阪嘉内』より引用)
勿忘草(わすれなぐさ)の歌
― 保阪家家庭歌 ―捕(とら)よとすればその手から小鳥は空へ飛んで行く
仕合わせ尋(たず)ね行く道の遙けき眼路に涙する抱かんとすれば我が掌(て)から鳥はみ空へ逃げて行く
仕合わせ求め行く道にはぐれし友よ今何処(いずこ)流れの岸の一本(ひともと)はみ空の色の水浅葱(みずあさぎ)
波悉(ことごと)く口付けしはた悉く忘れ行く
一番、二番が、とりわけ賢治や古い友人たちとのつながりを感じさせる部分で、これに対して三番は、上田敏の訳詩集『海潮音』(1905年刊)に、ウィルヘルム・アレント作「わすれなぐさ」として収録されているものです。
この三番の歌詞の「流れ」は、アレントの原文では‘Strom’、すなわち「大河」です。この歌が盛岡高等農林学校の思い出と関係しているとすれば、この「流れ」は北上川を連想させずにはおきません。
三番の部分のピアノ伴奏にアルペジオを連ねたのは、はずかしながら私なりに北上川の流れに思いをはせたものです。
末筆ながら、嘉内の歌曲の楽譜等の資料をお送りいただいた「保阪嘉内・宮沢賢治アザリアの会」のご厚意に、心から感謝申し上げます。
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・「勿忘草」の人
signaless
「簡単な」とご謙遜ですが、ピアノがとてもいいです。
嘉内と賢治。様々な想いが交錯して号泣してしまいました。エンドレスで聴いていたい美しい曲です。
hamagaki
signaless 様、こんばんは。
過分な評価とお言葉、恐縮です。でも、お一人でもそのように感じていただけただけでも、あえて演奏を作成してみた甲斐がありました。ありがとうございます。
この歌の歌詞は、嘉内と賢治(あるいは他のアザリアのメンバー)のことを想いつつ読むだけでも、たしかに胸に熱いものがこみあげてきます。
游氣
アルペジオは確かに
川が一秒九噸の針を流してゐて
鷺がたくさん東へ飛んだ
と詠われた北上川の川面のきらめきを想起させますね。
対岸にはあおい柳の枝がゆれて。。。
游氣
そういえば嘉内のご子息はhamagakiさんと同じく、精神科医のようですね。
余談でした。
hamagaki
游氣さま、こんばんは。
この歌詞を読みつつ北上川をイメージするだけで、私などは胸がじーんと来てしまいます。
北上川の流れが、可憐なワスレナグサの一本に寄せては返し、流れ去っていくように、ある時期にこの川のほとりに集まって青春をすごし、また散っていった若者たち・・・。
その少し上の世代には、彼らが先輩として尊敬していた石川啄木もいたわけですね。啄木の場合は、また少し複雑な思いもこの北上川に寄せつつ。
余談ですが、嘉内の次男の保阪庸夫氏は、臨床でのご専攻はたしか整形外科だったでしょうか。あいまいな記憶で申しわけありません。ただ、ある時期までは東京で「中枢神経系の解剖学」を専門に基礎医学研究しておられたということで、その点で私の仕事とも若干の接点があるのかもしれません。
今後とも、よろしくお願い申し上げます。
游氣
全く記憶違いでしたね。
失礼いたしました。
今から36年位前、北上川の岸辺から柳に覆われた対岸と遠くの山嶺を眺めて呆然とした経験があります。19歳でした。
それから三年後、イギリス海岸の写真と胡桃の化石を清六さんから見せていただく機会もありました。豊沢町のお宅です。
そんな思い出とともに曲を拝聴し、感慨に耽っています。
hamagaki
早速にお返事をありがとうございます。
36年前・・・。北上川も今とはまた違った岸辺の風景だったのでしょうね。
イーハトーブを自分の足で踏みしめてから、まだ10年少しの新参者である私からすると、うらやましいかぎりです。
またいろいろとご教示をお願いいたします。