吉・吝・凶・悔(補遺)

 前回に続き、1933年(昭和8年)3月31日付けの、森佐一宛ての「書簡467」の一部を再掲します。

易の

といふ原理面白く思ひます。みんなが「吉」だと思ってゐるときはすでに「吝」へ入ってゐてもう逆行は容易でなく、「凶」を悲しむときすでに「悔」に属し、明日の清楚純情な福徳を約するといふ科学的にとてもいゝと思ひます。希って常に凶悔の間に身を処するものは甚自在であると思ったりします。古風な点お笑ひ下すってかまひません。

 今日取り上げたいのは、上記の終りの方の、「希って常に凶悔の間に身を処するものは甚自在であると思ったりします」という一文です。これは私にとって、病床にある賢治の思想を表わす言葉として、とても印象的に感じられます。

 「希って」というのは「ねがって」と読むのでしょうが、自ら希望して常に「凶」と「悔」の間に身を処する者は、はなはだ自在である、というのです。
 前回引用した「メモ」の中には、「凶位ニ於テ愈々吝ナルモノハ絶ズ右二位ノ間ヲ往来シテ遂ニ再ビ吉境ニ達シナイ」という一節がありました。「凶」と「吝」の間の往来ばかりに陥ってしまう不幸な状態の、いわば対極として、賢治は「凶悔の間に身を処する」というあり方を、一つの理想と描いているのでしょうか。

 しかしながら、「凶」と「悔」の間にあるというのは、普通の人の感覚としてはとても「甚自在」などと感じられるものではないでしょう。まあ私のような凡人は、願えるものなら自分が「吉」の状態にあることばかり希望してしまいます。
 賢治が「凶悔の間に身を処する」などということを評価するのは、生前の彼がしばしば自ら進んで苦しみの中に身を投じるような行動をとっていたこととの関連もあるかもしれません。あるいは、賢治の中に一種の「原罪」の意識を読みとる人からすれば、賢治はこのような境遇こそが自らにふさわしいと感じたと解釈するかもしれません。

 しかしここであらためて考えてみると、「書簡467」を書いた時の賢治の状況は、現実に、「凶」=病気のために一日の大半は臥床を余儀なくされていて、「悔」=そのような運命を招いた自分をひたすら反省する、という毎日に置かれていたのです。まさに、「凶悔の間に身を処する」という状況にあったわけです。

 「〔われのみみちにたゞしきと〕」(「文語詩稿 一百篇」)において賢治は、次のように自らを断罪しています。

われのみみちにたゞしきと、  ちちのいかりをあざわらひ、

ははのなげきをさげすみて、 さこそは得つるやまひゆゑ、

こゑはむなしく息あえぎ、   春は来れども日に三たび、

あせうちながしのたうてば、  すがたばかりは録されし、

下品ざんげのさまなせり。

 すなわち、自分ばかりが正しいと思いこんで、父の怒りを嘲い、母の嘆きを蔑んだために、その報いとして、自分は病気になってしまったというのです。これこそ賢治の「悔」の思いです。
 また、病床で記された「雨ニモマケズ手帳」には、そのような賢治の気持ちが他にもいろいろ記されています。
 その第75頁と76頁には、

カノ肺炎ノ虫ノ息ヲオモヘ
汝ニ恰モ相当スルハタヾカノ状態ノミ。
他ハミナ過分ノ恩恵ト知レ。

として、「虫ノ息」以上に呼吸することさえ自分にとっては「過分ノ恩恵」であるとする厳しい戒めの言葉が記されています。
 また101頁~104頁には、

わが身熱し燃えたれば
こゝろたゞ
久遠の如来をおもひ
わが両掌やゝに合し
唇や息これに契ひたれども
かなしいかな
前障いまだ去らざれば
また清浄の光明なく
人を癒やさんすべもなし

と書いています。一心に仏に祈っても、「前障」(ここではやはり父母に逆らった罪のことか)のために、清浄の光明もなく、人の役に立つこともできない、と嘆いています。

 「常に凶悔の間に身を処するもの」とは、やはりこの頃の賢治自身の現実であったわけです。ただ手紙の文章との違いは、その境遇は賢治自身が「希って」得たものではなかった点です。
 しかしここで賢治は、今の我が身の状態は自ら希望して到達したわけではないにしても、あらためて省みてみれば、この状態こそ「甚自在」であり、進んでそれを求めてもよいほどである、と考えたのかもしれません。この状態にあれば、「吉→吝→凶→悔→・・・」という輪廻のようなサイクルを巡りつづけることもなく、もはや新たな罪を犯すこともなければその報いを受けることもないからです。
 ここには、病気と悔恨の日々を送らざるをえない自分自身を、否定的にではなく、むしろ肯定的に位置づけ直そうとする賢治の思いが、表れているのかもしれません。

 やはり「雨ニモマケズ手帳」に記され、『新校本全集』の「補遺詩篇 II」に「〔仰臥し右のあしうらを〕」として収められているいう詩句は、次のようなものです。

仰臥し右のあしうらを
左の膝につけて
胸を苦しと合掌し奉る
忽ち
われは巌頭にあり
飛瀑百丈
我右側より落つ
幾条の曲面汞の如く
亦命ある水の如く
落ちては
堂々轟々として
その脚を見ず
わが六根を洗ひ
毛孔を洗ひ
筋の一一の繊維を濯ぎ
なべての細胞を滌ぎて
清浄なれば
また病苦あるを知らず
われ恍として
前渓に日影の移るを見る

 来る日も来る日も病床の限られた空間に縛られながらも、賢治の意識は、巨大な滝の傍らに行き、全身の細胞が浄められ、病苦を忘れ、「恍として前渓に日影の移るを見る」こともできるのです。
 長らく、限定された空間における「不自由な」生活を余儀なくされながら、それを逆に「甚自在」ととらえるところに、晩年の賢治が至った一つの境地があるようにも思えます。