賢治の誕生日

 賢治は明治二十九年八月二十七日に岩手県花巻町で生まれた。戸籍は八月一日生まれとなっているが、明らかに記載の誤りである。
 これは彼が誤られはじめた第一歩であって、将来も誤り伝えられる運命を暗示しているかのようである。(宮澤清六「兄賢治の生涯」, ちくま文庫『兄のトランク』所収)

 これは、弟清六氏による賢治の伝記の書き出しの部分です。「将来も誤り伝えられる運命」という言葉には、兄の最大の理解者たることを自負し、世の中における賢治受容の実態に対しておそらく悲憤も感じた清六氏の、心の声が現れているようでもあります。
 しかしそれほどまでに賢治は「誤り伝えられ」てきたのか、そしてそれは具体的にはどういう点においてだったのでしょうか。今は亡き清六氏に、あらためて聴いてみたい思いにかられますが、賢治についてのブログなど綴っている私のような者としては、もって自戒の言葉とせねばと感じます。
 ちなみに、上記の清六氏の文章は、「昭和39年、岩崎書店版『宮沢賢治童話全集第七巻』所載「兄、賢治の一生」から取捨して筑摩書房刊『宮沢賢治研究』(1969年8月)に発表し、思潮社刊『現代詩読本12 宮沢賢治』(1979年12月)に収めるに際しさらに加筆したものである」とのことです。

 ところで、上記の引用で「岩手県花巻町に生まれた」と書かれている部分は、多少の問題をはらんでいます。もしも賢治が生まれた当時の行政区画名で書くならば、これは「岩手県里川口町で生まれた」となるはずですし、清六氏が伝記を書いた時点の行政区画名で書くならば、「岩手県花巻市で生まれた」となるはずなのですが、なぜか「花巻町」という、その中間の一時代に存在した行政区画名で表記している理由は、よくわかりません(「賢治の出生地住所」参照)。
 しかしそれはさておき、今回考えてみたいのは、出生地ではなく「誕生日」の問題についてです。

 清六氏も指摘しておられるように、賢治の誕生日は、戸籍には「八月一日」と記載されているということです。
 下の文書は、賢治が1921年(大正10年)12月に稗貫農学校に就職するにあたって提出した自筆(大正十年分以降は学校当局による加筆)の「履歴書」です。

宮澤賢治履歴書

 これを見ても、生前の賢治自身が、「自分は八月一日生まれ」と考えていたことがわかります。
 賢治の死後も、1934年刊草野心平編『宮沢賢治追悼』巻頭の「宮沢賢治略歴」、1939年十字屋版『宮沢賢治全集』別巻の「宮沢賢治年譜」、1942年冨山房刊『宮沢賢治』(佐藤隆房著)収録の「宮沢賢治年譜」(宮沢清六編)、これらいずれにおいても、賢治の出生日は「8月1日」とされていました。

 そこに、戦後になって新たな見解を提出したのが、小倉豊文氏の「二つの『誕生』」(『四次元』1950年10月号)という文章でした。そこには、次のように書かれています。

 第一は賢治の生れた日である。これは、私もかねがね疑問にしていた所であるが、最近、令弟清六さんから可成確実な推定の結果を承ることができたから紹介しておく。それによると、「八月一日」という誕生日は「八月二十七日」と訂正さるべきであるというのである。
 何故こうした訂正を行わねばならなくなつたかというと、明治二十九年八月三十一日に東北地方に大地震が起つた。この地震は岩手秋田の県境に近い岩手県和賀郡沢内村の真昼嶽の断層からおこつた所謂断層地震で、被害は秋田県の方がひどかつたが、花巻の町でも数軒の家が崩壊した位の激震であつた。この時には賢治はすでに生れていた。ところが、この日は旧七月二十三日で、それから十日乃至一週間前の七月十三日から十五日―即ち旧の盂蘭盆会―には、まだ賢治は生れて居なかつた。これは父君政次郎翁のたしかな記憶なのである。(政次郎氏の仏教篤信と博覧強記は実に驚くべきものである。) この年の盂蘭盆会は太陽暦の八月二十一日から二十三日になる。そこで問題が提起された訳なのである。何年か前、父君からこの事を承つて以来、私の疑問の一つになつていた。ところが、周囲の人々の記憶と清六さんの調査によつて、この疑問が漸く氷解されたのである。

 文中にあるように、政次郎氏の「博覧強記」は大したものだったようですが、自分の息子の誕生日を記憶していなかったという点では、ちょっと減点になるのもやむをえないでしょう。ただ、当時の慣習として、人の亡くなった日(命日)は重要なこととして記憶に留められるが、「誕生日」というものはあまり重視されていなかったということは、要因としてあるようです。

 それはさておき、この小倉氏の文章の影響力は大きかったようで、1954年刊の『近代日本文学辞典』(東京堂)の「宮沢賢治」の項には「明治二十九年八月二十七日(戸籍上は八月一日)に出生」と書かれ、1956年-1957年の筑摩書房版『宮沢賢治全集』の年譜でも、「八月二十七日出生」とされました。
 しかし、小倉氏の上記の文章には、出生日を「8月27日」と決める根拠として、具体的には「8月21日-23日の盂蘭盆会の時には生まれておらず、8月31日の大地震の時には生まれていた」ということが書かれているのみで、なぜ「27日」と断定できるのかということは記されていません。したがって当然ながらその後、その点への疑問が出されてきました。

 すなわち恩田逸夫氏は、「八月二十七日出生説への質問」と題した書簡形式の文章を『四次元』1960年4月号に掲載されました。そこで恩田氏は、上記のように「27日」と特定できる根拠は何か、と尋ねるとともに、そもそもこのような「疑問」が起こってくることの不思議も指摘します。

 一般に、親にとって、子どもの誕生日が何日であったかを疑問に思うなどということがあるでしょうか。よほど特殊な事情でないかぎり、わが子の誕生日は、はっきりと親の心に刻みつけられているはずです。記憶しているわが子の誕生日が、戸籍の記載と違っているのなら、それは明かに戸籍の方がまちがっているのでしょう。賢治の母堂が実家の鍛冶町でお産をしたことが疑いない事実として確信されているのと同じく、確信している誕生日については証明の必要もないことがらです。
 <戸籍の出生日が違うのではないか>と疑問に思ったり、<本当の誕生日がいつであったか>と、いろいろ事例を挙げて推定してみること自体がまことにおかしなことで、一般には問題にするまでもないことと思われます。

 恩田氏が疑問に思われたことは常識的にはもっともで、私たちにとっても不思議なことです。
 『新校本全集』の「年譜篇」によれば、「出生当時父は商用で関西方面へ旅行中であった」とありますから、帰宅して(妻の実家に行って)待望のわが子の顔を見るとともに、「いつ生まれたのか?」ということを妻なり周囲の人に尋ねそうなものです。その時、「○日に生まれた!」と聞いたその日付は、父としてはかなり心に強く刻まれるのではないかと思うのですが、どうでしょうか。しかし、賢治の死後まで「8月1日出生」という「誤った」認識を、家族ぐるみで共有していたことからすると、父も母も、賢治出生の時点において、その日付を心に留めるということはなかったのだろうと考えざるをえません。
尋常小学校第一学年修業証書 賢治の尋常小学校時代の一学年ごとの「修業証書」(右写真)も残されていますが、そこにもやはり「明治廿九年八月一日生」と記されています。小学校入学の際には、戸籍謄本などを学校に提出する必要があったでしょうし、その時にも親は戸籍の生年月日を見ているはずですが、当時はそれに疑問は抱かれなかったわけです。

 恩田氏が、「小倉豊文先生 机下」と冒頭に記す書簡体で「八月二十七日出生説への質問」を書いた意図は、小倉豊文氏からの返答を強く期待してのことだったのでしょう。しかし、小倉氏は長らくそれに公には答えておられませんでした。やっと1986年になって、「賢治誕生日考」(洋々社『宮沢賢治6』所収)という文章を発表し、「私が恩田氏の質問に対する応答を公表しなかったのは、私の重大な手落ちであったといわねばならない」と率直な反省も記しておられます。ただこの時、恩田氏はすでに1979年に死去された後でした。唯一の救いは、小倉氏の記憶によれば、すでに恩田氏の質問に答える「私信」は出しておられたということです。
 さて、その小倉豊文「賢治誕生日考」の内容ですが、文中に引用されている宮澤清六氏の小倉豊文氏あての書簡が、唯一最大の根拠となっています。この清六氏の書簡全文は、下記のとおりだったということです。

 「四次元」に賢治の生年月日について、恩田氏があなたに手紙のように書いています。母にもたしかめましたが、大地震(八月三十一日)の日は生後五日であり、旧盂蘭盆会十六日がすんで二・三日と思っていると申していますから、八月二十七日で正しいと思います。私からもそのうちに恩田さんに書きます。

 すなわち、「大地震(八月三十一日)の日は生後五日」という母の記憶が、決め手とされたわけです。
 ところで現代の私たちの多くは、「8月31日が生後5日」というと、31から5を引いて、8月26日が誕生日なのではないかと思ってしまいます。26日の1日後が27日、2日後が28日、と数えると、5日後が31日になるのですから。しかし小倉氏によれば、母の言うこの「生後5日」とは、当日を「第1日」として数える「仏教的慣習」による数え方なので、誕生日は8月27日なるのだということです。

 また、賢治の誕生日に父政次郎氏が疑問を抱いたきっかけとしては、花巻農学校の書記に就職した照井七郎氏が、机の引き出しから上に画像を掲載した賢治の「履歴書」を発見し、それが宮澤家に届けられたことにあったということです。小倉氏は書いています。

発見された履歴書を見て翁(政次郎氏)が賢治の役場の誕生日に疑問を発したのは、地震の約1か月前の七月から八月初めにかけて、翁は商用で関西地方に居り、旧盆には帰宅していて、地震に遭った記憶が確かであったからである。

 ただし、ここにはまた一つ新たな問題が現れています。上に『新校本全集』「年譜篇」の記載を引用したように、賢治の「出生当時父は商用で関西方面へ旅行中であった」はずだったのですが、上の引用では、(賢治出生直前の)「旧盆には帰宅していて」とあり、そうならば父は賢治出生の時にも家にいたことになってしまうのです。

 奥田弘氏は、「宮沢賢治についての二つの考察」(『宮沢賢治研究資料探索』所収)という文章を書き、1998年の時点でもう一度、小倉氏と恩田氏のやりとりを整理されました。そして、政次郎氏が賢治出生の時点で花巻にいたか否かという、上記の疑問点についても触れ、結局「この記憶が確かであるならば、弟治三郎の出生届代行は、どのような事情があったのか、宮沢家からは説明されていない。賢治生誕前後について家人の記憶に基づく記述は混乱しているといわざるをえない。」と、まとめておられます。

 さてここでもう一度、冒頭に引用した清六氏の「兄賢治の生涯」に戻ってみると、賢治が出生後の問題の大地震について、次のように書かれています。

 賢治は長子であったので、その頃の風習で母の実家の同じ町内の鍛冶町で生まれた。
 母はそのとき二十歳であったが、産後五日目の朝、前に書いたような地が破れて水が噴き出し、沢山の家屋がつぶれた大地震がおこった。

 ここで気になるのは、大地震の発生が「産後五日目の」と書かれていることです。陸羽地震は、1896年(明治29年)8月31日午後5時6分に起こったということで(「岩手県立博物館だより」「Wikipedia」参照)、「朝」ではなくて「夕方」のことだったのです。奥田弘氏の言われるとおり、「賢治生誕前後について家人の記憶に基づく記述は混乱しているといわざるをえない」のです。
 母親のイチさんとしても、何十年も前の記憶ですから錯誤が起こるのも無理もないことですが、一般的に考えて、「ある出来事が起こったのが朝だったのか夕方だったのか」という記憶の方が、「ある出来事から別のある出来事までに何日が経過していたか」という記憶よりも、思い起こしやすいものだろうと考えられます。皆さんも、何十年か昔の記憶について、この二種類の記憶想起を試してみていただければわかると思います。
 ですから、「朝か夕か」ということにさえ錯誤がある母の地震記憶において、「産後五日目」という数字の方もどこまで正しいかと考えると、残念ながらそれは十分な確度があるとは言えないでしょう。もちろんこれは、当事者からの一次情報として、他に手がかりのない現時点では、最大限に重視すべきものではありますが。

 以上、資料の中にはかなり古いものもあったので、私自身が最近になってやっとまとめて目を通すことができた感想を、述べさせていただきました。現在は通説となっている「8月27日出生説」も、根拠はかなり心もとないものであるわけです。
 このような状況からすると、『新校本全集』「年譜篇」の1896年8月1日の項には、「戸籍簿によればこの日、(中略)父政次郎・母イチの長男として誕生。」と記され、8月27日の項には、「戸籍簿には右のように八月一日出生となっており、賢治自筆の履歴書にもそのように認められているが、(中略)前後の事情から二七日出生が正しいとされている。」と記されていることは、客観的で妥当な記述の仕方だと、あらためて感じます。
 上田哲氏は『図説 宮沢賢治』(河出書房新社)の中で、「八月一日出生説」からの変化の経緯を概観した後、

八月二十七日説を遺族が言い出したのは敗戦後である。それには遺族たちの強い意向が感じられる。それまで戸籍の生年月日には異をとなえなかった宮沢家の急なこの変化は、そういわなければならない、なんらかの事情が生じたためだろうか。

とまで推測しておられます。確かに不思議な経緯ではあります。

 ただ私は、花巻市で毎年8月27日を中心として「賢治生誕祭」が催されることに関しては、結構で素晴らしいことだと思っています。賢治の出生日に関して「謎」が残っていることは事実としても、とりあえず私たちとしては今の段階での「落としどころ」を持っておいた方が安らぎますし、客観的根拠はともかく「8月27日」というのが、直接のご家族の最終的な認識だったからです。少なくとも、2月11日を「建国記念日」とすることよりは、比べられないほど真っ当な扱いでしょう。
 上田氏の言われるような「なんらかの事情」の有無はともかく、このような事柄に関しては、(もしかして将来何か決定的な証拠が現れるまでは)とりあえず最も近しい親族の思いを、尊重するべきなのでしょう。

 ただし、あの世の賢治は、「俺の誕生日は8月1日じゃなかったのか?」といぶかっていることでしょうが……。