年末は忙しくて記事にするひまがなかったのですが、去る12月20日に、賢治学会の用事があって、東京に行ってきました。
その日の午前中に、賢治の足跡を訪ねて少し都内を徘徊してきましたので、遅くなりましたがご報告です。
まずは1916年(大正5年)、賢治が盛岡高等農林学校2年の夏に、「独逸語夏季講習会」を受講するために宿泊していた旅館「北辰館」です。
奥田弘氏の「宮澤賢治の東京における足跡」(小沢俊郎編『賢治地理』所収)は、昭和42年の時点で明らかになっていた資料に基づいて、賢治の東京での行動を詳細に位置づけた古典的労作ですが、その中に右のような地図が付いています。
旅館の名前は、奥田氏の文献では「北宸館」という文字になっていますが、その理由についてはわかりません。当時発見されていた唯一の資料だった、高橋秀松あて「書簡18」の住所記載の文字がそのように読めたのでしょうか。現在では、『新校本全集』の第十五巻を見ると、「北辰館」と記されています。
あと、この地図における方角もちょっと不思議で、奥田氏は上がほぼ北であるように方位記号を書いておられますが、実際にはこの地図では上が東、北は左になります。
ところで奥田氏の上記論文内では、北辰館について次のように述べられています。
さて、この時の宿泊先となった「北宸館」は、略図(6)のとおりである。都電停留所、麹町二丁目から、四谷より一つ目の道を右折すると、鈴木コーヒー店というところが、そうである。近くの古老の話によると、「北宸館」は、比較的大きい旅館で、下宿兼用の旅館でなかったという。当時は、附近に下宿専用の小規模の旅館や「素人下宿」の旅館が多かったそうだ。
しかし現在は、奥田氏の同定された「鈴木コーヒー店」という店もなくなっていて、2004年7月に現地を訪れたかぐら川さんは、「賢治 in 麹町1916 (2)」という記事において、その場所が「麹町鈴木ビル」というビジネスビルになっていることを確認されました。「鈴木」さんというおそらくこの地所のオーナーと思われる方の名前が、由緒を留めていますね。
2009年12月20日の朝にこの場所に来てみると、黄色っぽい色をした「麹町鈴木ビル」が、真っ先に私の目にも入りました。この時ちょうど、東隣の家(上の地図では「鈴木コーヒー」の上隣)の住宅で高齢の女性が玄関まで出てきておられたので、「昔ここに‘鈴木コーヒー’という店がありましたか?」と尋ねてみると、「鈴木コーヒーはこのお隣でしたよ」と教えて下さいました。
調子に乗って、「さらにその昔には‘北辰館’という旅館がありませんでしたか?」とお聞きしましたが、「それはわかりません」とのお答えでした。さすがに、奥田氏の文献に出てくる「古老」とは、時代が変わってしまっているようです。
で、下の写真が現在の「麹町鈴木ビル」です。北西の方向から写しています。
賢治はここにしばらく滞在して「東京独逸学院」に通い、途中からは同じ麹町三丁目(当時)の「栄屋旅館」というところに移っています。すぐ近くなのでしょうが、この「栄屋旅館」の方の詳しい位置はまだわかりません。
さて、ここから東南東の方角に行くと、すぐに皇居の「半蔵門」(下写真)があります。
江戸時代に城の警護を担当していた服部家(代々「服部半蔵」を襲名)の屋敷がこの門の前にあったことから、こう呼ばれたそうです。この門を起点として、甲州街道(現在の国道20号線)が始まりますが、これは江戸城有事の際は、将軍がこの門から出て西へ向かい、幕府天領である甲府に避難するという目的を秘めた道路整備だったのだといいます。
ところで賢治は、この1916年の上京中に、甲斐に住む保阪嘉内のことを思って次の短歌を書き送りました。
甲斐に行く万世橋の停車場をふっとあわれにおもひけるかな。
東京独逸学院のあった神田からほど近くには、当時の中央本線の始発駅である万世橋駅があり、そこが大正時代には「甲斐への起点」を象徴していました。
つまり、この夏の賢治は、たまたま甲斐へ向かう「道路」の起点近くで寝泊まりしながら、甲斐へ向かう「鉄道」の起点近くへと通っていたというわけです。賢治と嘉内を結ぶ「見えない糸」ですね。
半蔵門を後にして、内堀通りを北へ行くと、すぐに左手にはイギリス大使館が見えてきます。下写真で左側の塀が大使館、その前に続く木々が、有名な桜並木です。
北辰館のあった場所から神田方面へ行くなら、この通りよりも西方で、たとえば現在は地下鉄半蔵門線が下を走っている大妻通りなどを、靖国通りまで北上するという経路もあるのですが、私なら景色もきれいなこのイギリス大使館横を通る内堀通りの方を通学路にするでしょう。もう少し行くと、右手に皇居のお堀も見えてきて、さらによい雰囲気です。
賢治がこの道を毎日通っていたのなら、上京中の賢治の短歌、
大使館低き練瓦の塀に降る並木桜の朝のわくらば
に出てくる「大使館」を、道沿いに長く続く「イギリス大使館」と考えるのも自然です(詳しくは、以前の記事「大使館の桜」参照)。
大使館の正面玄関は下のような感じ。
そして、大使館に沿って北に歩いて行くと、右下写真のようなモニュメントが建てられていました。金属板には、次のような言葉が記されています。
1898年、当時の英国公使 サー・アーネスト・サトウが、この地に初めて桜を植えました。植樹100周年を記念して、1998年春、ここに駐日英国大使館は新たに桜を植え、日英両国の友好の証とします。
この記念碑は、紀宮清子内親王殿下によって除幕されました。
1998年4月3日シルビア・オーウェンズ作 1963年 英国生まれ
さらに北に進むと、千鳥ヶ淵の交差点のところに「千鳥ヶ淵周辺のご案内」と題された千代田区が立てた案内板がありました。そこには、「明治34年(1901)に代官町通りが内堀通りまで整備されたときに、新たに土橋が築かれ、半蔵濠と分かれて今の形になりました。」と記してありました。
すなわち、「代官町通り」が整備されたのは1901年ということですから、当時の賢治の通学路としては、千鳥ヶ淵交差点からこの代官町通りを抜けて神田方面へ出たという可能性も否定はできず、当時のフランス大使館前を通ることもできなくはありません。しかし総合的に考えると、やはり賢治の短歌に出てくる「大使館」は、イギリス大使館だろうと私としては思います。
下写真が、当時フランス大使館があったあたりです。現在は、東京法務局や九段合同庁舎などがあります。
以上で、1916年夏の賢治の東京滞在関連地めぐりはひとまず終えて、今度は1918年末~1919年3月の、トシ看病のための滞在地の方へ向かいました。
九段下駅から地下鉄東西線に乗り、飯田橋で有楽町線に乗り換えて、護国寺駅で降ります。音羽通りを少し南に行って、大塚警察署の角を西に曲がると、「三丁目坂」という坂道です。この坂を上って首都高速の高架をくぐり、最初に左(南)へ入る細い路地を折れると、そこが昔「雲台館」があったという場所です。
下図は、やはり奥田弘氏の「宮澤賢治の東京における足跡」(小沢俊郎編『賢治地理』所収)より引用した地図です。
奥田氏が訪ねた昭和41年の時点では、そこには賢治の頃の「雲台館」の建物がそのまま残っていて、「東京鉄道管理局音羽寮」として使われていたということですが、現在はもうその建物はなくなって、民家になっています。
下の写真は、路地を南から北へ向かって写したもので、右手の民家の場所が、昔「雲台館」があったというあたりです。
賢治と母イチは、毎朝この路地を抜けて、「三丁目坂」を上り、「永楽病院(東大病院小石川分院)」に通っていたわけですね。「三丁目坂」と呼ばれた由縁は、「旧音羽三丁目から、西の方目白台に上る坂だったから」という即物的な説明が、右の案内板に書かれていました。
「雲台館」のあった場所からは、歩いて数分で「永楽病院」のあった場所まで行くことができます。
しかし知らない土地で、一時は生命まで危ぶまれたトシの病状を心配しながら行き来する坂道は、賢治や母にとって心細いものだったに違いありません。
そして下の写真が、昔「永楽病院」のあった跡地です。現在は取り壊しを待つだけの無人の建物ですが、2001年6月まではやはり「東大病院分院」として、一線の診療を行っていました。
私はここを訪ねたのは今回が初めてなのですが、ちょっとした感慨がありました。1960~70年代にはこの病院で、安永浩氏とか中井久夫氏とか、著名な精神医学者が仕事をしておられたということで、個人的にはこの「東大分院」という名前には、独特のオーラを感じていた頃がありました。たまたま賢治の縁でその地に来ることになるとは、不思議な巡り合わせです。
ただ、塀には右のような「解体工事のお知らせ」が貼ってあって、「工事予定期間」の欄を見ると、「平成21年4月15日から」「平成21年12月18日まで」となっています。何かの都合で工事が遅れているのかもしれませんが、もしも予定通り12月18日に解体が終わっていたら、12月20日に私がここに来た時には、建物はなくなっていたわけです。
解体後は、ここには外国人研究者・留学生向けの宿舎や文系の研究所を建設する計画があるとのことで、私が「東大分院」の建物を最後に見られたのは、ちょっとした幸運のおかげでした。
お正月をはさんで、現時点ではまだこの建物は存在しているのだろうと思いますが、近いうちには姿を消すでしょう。
これでお昼近くになりましたので、トシがいた「責善寮」の跡なども見てみたかったのですがそれはあきらめて、護国寺駅に戻って地下鉄に乗り、麹町駅で降りて「かわかみ」でラーメンを食べ、午後から会議がある大妻女子大学へと向かいました。
かぐら川
文中でとりあげていただいたのを機に、現在のブログに2007.10当時の日記を再録しました。賢治の高等農林時代の最初の単独上京については今もいろんな意味で興味をもっていて、麹町の止宿先は何度か訪ねています。(賢治がおそらくはかなりなじみを感じていたであろう瀧廉太郎の関係地も麴町周辺にいくつかあるからですが・・・。)当時のドイツ(語)学のありようを探れば賢治の通った《東京独逸学院》についても、もう少し情報がえられるのではないかと思いますが、どうなのでしょう。
いじれにせよ賢治は上京のたびごとに東京での地歩を広げていったといったと推測しています。「賢治の東京」学は、賢治自身の内奥の拡大と照応させながらさぐっていく必要があると感じています。
最後になりましたが、そしてご挨拶が遅くなりましたが、本年もhamagakiさんの刺激的な賢治論考、楽しみにしています、本年もよろしくお願いいたします。
hamagaki
かぐら川さま、こんにちは。こちらこそ、今年もよろしくお願いします。
「賢治は上京のたびごとに東京での地歩を広げていった」というのは、まさに私もそのように想像します。青年賢治にとっては、やはり東京は魅力的な場所だったのでしょうね。
ところで彼の最初の上京の前に、すでに妹のトシは1915年4月に日本女子大学校予科に入学して東京での生活を始めていますし、東京で暮らした期間の合計も、トシ(4年間)の方がはるかに長いのですね。もっとも、女子大の寮生活をしていたトシは、賢治のようにあちこち徘徊することもなかったでしょうが、それでもいろいろと東京の話を聞いては、賢治も憧れをかきたてられたのかと思います。
私が上の記事において安心して「北辰館」跡を訪ねられたのは、かぐら川さまの5年前の紀行のおかげでした。
本年もいろいろとご教示をお願いいたします。