『解離性障害』

 柴山雅俊著 『解離性障害―「うしろに誰かいる」の精神病理』(ちくま新書)という本を読みました。

解離性障害―「うしろに誰かいる」の精神病理 (ちくま新書) 解離性障害―「うしろに誰かいる」の精神病理 (ちくま新書)
柴山 雅俊 (著)
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 「解離」という心理メカニズムは、一部では現代社会を理解するための重要なキーワードとしてもてはやされ、たとえば、香山リカ著 『多重化するリアル 心と社会の解離論』(2002)とか、斎藤環著 『解離のポップ・スキル』(2004)など、いずれも精神科医が「解離」という観点から相次いで本を出して、最近の社会現象について興味深い切り口を提供してくれていました。

 今回とりあげる『解離性障害』は、社会評論的な上記の2冊などとは異なって、その名のとおり「解離性障害」という一群の精神疾患について、医学的な解説をしている本です。
 著者は「まえがき」において、「本書は一般向けではあるが、私自身の気持ちとしては解離の病態に苦しんでいる人たちに向けて書いたつもりである。(中略) さらに患者を支える家族、友人、恋人にぜひ読んでほしいと思っている。」と書いておられますが、内容はかなり専門的です。上のカスタマー・レビューの一つにあるように、「専門医が読んでも面白い」ものだと思います。

 ところで何でまた、本日ここでこの本をとりあげたかというと、この本の第七章「解離とこころ」には、「宮沢賢治の体験世界」と副題が付けられていて、賢治が多くの作品に記述している特異な体験について、「解離」という観点から分析が行われているからです。

 まず著者は、第七章の章の趣旨について次のように述べます。

 私が専門としている精神医学とは病の学問であり、それを作家にそのままあてはめて論じることはできない。賢治の生育歴を調べても、彼がなんらかの病気であったと判断する根拠はない。しかし、私には作品のところどころに解離の主観的な体験と類似したものが見出されるように思われてならない。彼の心的世界は明らかにわれわれの体験世界とは異なっているところがある。それを単に精神病や神秘体験として理解するのではなく、解離、とりわけ意識変容の観点から了解の幅を広げようと試みようとするのが本章である。

 そして、たとえば

79 うしろよりにらむものありうしろよりわれらをにらむ青きものあり

という有名な短歌に詠まれている「背後からの視線」は、著者が言うところの「気配過敏症状」として、解離性障害の人がしばしば体験する現象と非常に似ていると指摘します。
 あるいは、童話「インドラの網」の冒頭の、

 そのとき私は大へんひどく疲れてゐてたしか風と草穂との底に倒れてゐたのだとおもひます。
 その秋風の昏倒の中で私は私の錫いろの影法師にずゐぶん馬鹿ていねいな別れの挨拶をやってゐました。

というところなどは、やはり解離現象の「体外離脱体験」とみることもできるとしています。

遠隔化と近接化 著者は、本書の第四章「解離の構造」において、意識の変容のあり方について「遠隔化と近接化」という観点から、整理をしています(右図)。
 「遠隔化」においては、「周囲世界は膜の向こう側へと隔たったものとして体験される。感覚の鮮明さが減弱してゆき、ぼんやりとした表象、夢のようなものへと外界は引き寄せられている。これを知覚の表象化と表現することもできよう」と著者は説明します。これは例えば、著者が第七章の「離人症」の項で挙げている賢治の短歌、

165 ぼんやりと脳もからだもうす白く消え行くことの近くあるらし

に詠まれている体験に相当するのでしょう。

 一方、「近接化」においては、逆に「表象が知覚化する」のが特徴とされます。言い換えると、一般には心の中のイメージとして体験される事柄(表象)が、まるで外界からの知覚のように体験されるのです。この「知覚化」が、現実と区別できないほどの実感を持つ場合には、「幻覚」になります。
 思えば賢治は、幻聴、幻視など、自分が体験した種々の幻覚を描いたと思われる作品を多く残しています。(例を挙げればきりがないほどですが、たとえば「比叡(幻聴)」や、「小岩井農場」における、ユリア、ペムペルなど。) これらの幻覚は、統合失調症という病気において現れる幻覚とは異なっていて、「解離性幻覚」と呼ばれる特徴を持っているのですが、これこそが上記のような意味で「表象が現実味を帯びて知覚化したもの」と考えられるわけです。

 同じようなことを、以前に私は安永浩という人の提唱した「体験線」というモデルを用いて、説明しようとしたことがありました(「「心象」の体験線モデル」参照)。私もこの時は、賢治の独自の感覚においては「自我図式」と「対象図式」が近接して、表象が知覚化するということを言おうとしました。

 あらためて眺めると、賢治の作品は「表象の知覚化(幻覚化)」に満ちています。「心象スケッチ」における「心象」とは、表象の知覚化あるいは知覚の表象化によって、「表象と知覚が渾然一体となったもの」に、賢治が独自の意味をこめて与えた呼び名である、とさえ言ってもよいかもしれません。

◇        ◇

 最後の方は、勝手に私の解釈や考えを述べるような形になってしまいましたが、この柴山雅俊著 『解離性障害』 第七章は、宮澤賢治に関する久々の本格的な病跡学的論述と言えるものだと思います。
 賢治の作品に見られる独特の体験描写を、単に精神医学や心理学の用語にあてはめて事足れりとするのではなく、著者は「解離」という視点を導入することによって、彼の体験の全体像を、有機的に把握する可能性を示してくれています。

 賢治の病跡学と言えば、福島章著 『宮沢賢治―芸術と病理』(金剛出版新社, 1970)、のちに改版されて 『宮沢賢治―こころの軌跡―』(講談社学術文庫, 1985)が、古典的な名著だったと思います。残念ながら、どちらも現在は絶版になっていますが、賢治の一生を細かく跡づけて、その基底に「躁」と「うつ」が交代する「周期性性格」を指摘した論には、確かに説得力がありました。これは賢治の生涯を理解する上でも、有益な視点をもたらしてくれたと思います。
 同じ著者が1996年に刊行した 『不思議の国の宮沢賢治』(日本教文社)は、失礼ながら今ひとつ面白くなかったものですから、この柴山氏の著書は、私にとっては上記のように、「宮澤賢治に関する久々の本格的な病跡学的論述」と感じられたのです。

 伝え聞くところによれば柴山雅俊氏は、福島章氏が研究のために集めておられた賢治に関する多数の資料を、すでに譲り受けておられるとのことです。その「継承」関係には、何か象徴的なものさえ感じます。

 新たな時代の、賢治の病跡学的研究の発展を期待するところです。