高校野球岩手大会決勝

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 もう先週の話ですが、去る7月24日に全国高校野球選手権岩手大会の決勝戦が行われ、花巻東高校が盛岡第一高校を 2-1 で破って、春の選抜に続いて見事に甲子園行きの切符を手にしました。

 花巻東高校が、この春のセンバツで岩手県代表としては初めて準優勝の快挙を成し遂げたのはまだ記憶に新しいところですが、また夏の甲子園でも、あの菊池雄星君の姿を見られるのが楽しみです。
 岩手大会のネット裏には、日本プロ野球12球団からはもちろんのこと、米メジャーからも、ヤンキース、ジャイアンツ、カージナルス、メッツ、ドジャースの5球団のスカウトが視察に訪れていたとのことで、メッツのスカウトなどは、

投手になるために生まれてきたような存在。左右こそ違うが、大輔(松坂投手、レッドソックス)より上。球速160キロも夢ではない。自分を律することができる人間性も素晴らしい。

と大絶賛していたとのこと(河北新報)。しかし日本国民としては、何とか阪神タイガースに入団してほしいところですw。

 一方、惜しくも決勝戦で涙をのみましたが、かの盛岡第一高校が岩手大会の決勝まで進出して、春の全国準優勝校を相手に、6回までは 1-0 とリードしつつ試合を優勢に展開していたというのは、まさに驚くべきことです。
 県立盛岡第一高校は、賢治が卒業した旧制盛岡中学校の後身で、岩手県でも屈指の進学校です。今回の岩手大会快進撃を伝える報道では、「古豪」と表現されていましたが、調べてみるとたしかに昔は何度も甲子園に出場していたのですね。

 現在の「夏の甲子園」の前身である「全国中等学校優勝野球大会」が始まったのは、賢治が盛岡中学を卒業した翌年の1915年(大正4年)なので、さすがに賢治が在学中に全国大会に出場したことはなかったのですが、第3回の1917年(大正6年)、第5回の1919年(大正8年)、第7回の1921年(大正10年)、第12回の1926年(大正15年)、第19回の1933年(昭和8年)に、全国大会に出場しています(1924年以降、会場は甲子園)。
 盛岡中学の出場年を賢治の生涯にあてはめてみると、1917年は「アザリア」創刊の年、1919年はトシ看病のため母とともに東京で正月を迎えた年、1921年は家出出京と稗貫農学校着任の年、1926年は花巻農学校を退職して羅須地人協会を始めた年、1933年は没年です。
 賢治も上のうちいずれかの年には、母校の野球部の活躍を気にとめたこともあったでしょうか。

 そして、戦後に新制盛岡第一高校としても、1949年、1950年、1968年、1978年に、甲子園に出ているのですね。まさに「古豪」の名に違わず、旧制中学野球からの名門校だったわけです。

 ところで賢治の同級生では、親友でもあった藤原健次郎が野球部で活躍していたのは、賢治ファンならおなじみのことでしょう。
 賢治が盛岡中学2年の時、藤原健次郎あてに書いた[書簡0a]では、

 拝啓
藤原健次郎こんなに鉛筆で書かうもんなら学校の選手に対して何ぞその不敬なるなんて怒るかも知れないが不敬なやうで失礼でもないんだから何ともないね。
何うだね。遠征中大館に対する時のもやうを書いては。それと早大に対する一点はあれゃ誰が失策したんだね。選手仲間だからおっかなくってなんてそんな下手な事云ふもんじゃない。(後略)

などと、賢治も野球のことを話題にしたこともあったのですね(上の画像は、賢治が書簡中に藤原健次郎のあだ名「大仏」にちなんで描いた戯画)。同じ花巻出身の同級生瀬川貞蔵も、「野球に熱中した」と『新校本全集』第十五巻校異篇に書いてありますので、やはり野球部のメンバーだったのでしょうか。

 彼らのはるか後輩たちの雄姿も、できることなら甲子園で見てみたかった気がします。