上の2つの写真(『新校本全集』第十二巻の口絵より)は、童話集『注文の多い料理店』の広告葉書で、内容からすると、出版社が本の刊行前の宣伝のために、各書店に出したものと思われます。
『注文の多い料理店』が発刊されたのは、実際には1924年(大正13年)12月1日付けでしたが、上の方の葉書では「十一月十日発売開始」と書かれており、下の方の葉書では「愈々1924,11,15日より」と書かれていて、当初の予定よりは少しだけ刊行が遅れたのかと思われます。ここで、「11月15日刊行予定だったのがいったん11月10日予定に早まってから、また12月1日に延期された」という経過を想定するよりも、「11月10日→11月15日→12月1日」というふうにだんだんと刊行予定が遅れたと考える方が自然ですから、上の葉書の方が下の葉書よりも、早い時期に作成されたのだろうと推測されます。
さて、今回この広告葉書に注目した理由は、どちらの葉書にも、「イエハトブ童話 注文の多い料理店」と書かれているからです。実際に刊行された本の表紙や扉には、「イーハトヴ童話 注文の多い料理店」と書かれていましたので、賢治自身による表記方法が、刊行前のある期間のうちに変化したのでしょう。
この語の表記に関しては、上記の2つ以外にも、「イーハトブ」、「イーハトーブ」、「イーハトーヴ」、「イーハトーボ」、「イーハトーヴォ」という5種類がさらにあり、合計で7種類もあってかなりややこしく、『新宮澤賢治語彙辞典』でも、「時期的にも不同で、表記変化の確とした根拠もないと言わざるをえない」と結論づけています。
これらの表記の中で、語頭は「イエハトブ」を除いてすべて「イー」ですから、「イエハトブ」のみやや異質で、使用例も上の2種の広告葉書においてだけのようです。しかし、これが単なる誤植でないと思われるのは、上述のように時期を異にした2種の印刷のいずれも「イエハトブ」となっていて、途中で訂正が行われていないからです。
すなわち賢治は、短期間ではあったかもしれませんが、「イエハトブ」という表記を意識的に用いていたと考えられるのです。
ちなみに、上記の七種類の表記のうちで、最も早い用例は、1923.11.22の日付けを持つ「イーハトブの氷霧」(『春と修羅』)における「イーハトブ」です。他の表記が用いられている作品を通覧すると、今回注目した「イエハトブ」というのは、比較的早い時期の表記だろうという感じはあります。
以上を前置きとして、先日の「"ÏHATOV" FARMERS' SONG の[ Ï ]」という記事の続きです。前回の記事を書いた時には思い至らなかったのですが、「Ï」の上の2つ点の記号がドイツ語の「ウムラウト」の拡大使用だとすると、これは「IE」とも書き換えられるわけですから、語全体をカタカナで書けば、「イエハトヴ」となるわけですね。つまり、賢治が「イエハトブ」というカナ表記も用いていたことは、先日の記事に耕生さんがコメントいただいた「ウムラウト説」を、まさに支持する根拠になるように思われるのです。
あるいは、上の広告葉書を作成する時点では、賢治は「ウムラウト記号」など意識にはなかったのかもしれません。しかしそうだとしても、賢治が岩手における「イ」の発音を表現しようとする際に、共通語の「イ」と「エ」の中間的な音を表そうと工夫して、「イエハトブ」と書いたのではないかと考えることはできます。発想としては、こちらの方が無理がないかもしれません。
いずれにしても、「イエハトブ」は、「イ・エ・ハ・ト・ブ」と5音節に発音するのではなくて、最初の「イエ」は岩手地方の方言における「イ」として1音節に発音するのだろうと私は思います。
ただ、おそらく実際には「イエハトブ」と表記してあっても、説明もなしに上記のように方言的に読んでくれる人はまずいないでしょうから、まもなく賢治も、よりわかりやすい「イーハトブ」などの表記に変更したのだろうと推測します。
それがまた、後年になって賢治がこれをアルファベットで表記しようとした際に、あらためて方言の発音のニュアンスをこめようとして、「ÏHATOV」と書いたのではないかと思うのです。
したがって私としては、「ÏHATOV」の「Ï」の2つの点の意味として、前回の記事で書いたように「方言学における発音記号」として解釈するよりも、耕生さんがコメントで示唆していただいたように、「拡張的ウムラウト記号」としてとらえた方がよいのかと、現在は考えています。
いずれにせよ、賢治の意図は、この「2つ点記号」によって方言的発音を表記することにあったのだろうと推測するという結論において、どちらも同じことになるのですが。
megumi
hamagakiさま
こんばんは。
また、下調べもせず、読んで思いついた範囲のことなのですが、上と下の横書きが「右から左」から「左から右」になっていることに興味を持ちました。
日本語の横書き標記が今のように「左から右」になったのはいつごろなのでしょうか…。そんなことも今までは考えてもみなかったのです。
子どもの頃、のたばこやさんの看板が「こばた(アルファベットだったかしら…)」のまま長く存在していたのを記憶していますが、いつ頃から使用されていた看板だったのでしょう…。
平成になり、西暦では2000年を過ぎ、そんな標記も目に留まらなくなりました。
上記2点の広告の送り仮名が「ひらがな」なことに「新鮮さ」を感じました。「片仮名」が使用されていたのは、いつ頃のことだったっけ…。
様々なことが気になる広告です。
「日本語」や当時の出版物に詳しい方々には分かり切ったことなのかも知れませんが、私は知らないことが多くて、その分、楽しく拝見しました(^^)。
hamagaki
megumi 様、書き込みありがとうございます。
ほぼ同時期の文書が、「右横書き」と「左横書き」に分かれている点、たしかに面白いですね。私自身、意識していませんでした。
調べてみると、日本語の(見かけ上の)横書きは、元々は「一行一文字ずつの縦書き」として右から左への「右横書き」になっていたということのようですね。明治時代にも基本はあくまで「縦書き」で、文字を横に配置する必要がある時に、「右横書き」が併用される状態であったのが、徐々に欧米を影響も受けて、「左横書き」も用いられるようになってきたようです。大正時代や昭和初期は、「右横書き」と「左横書き」が混在していたわけですね。
戦時中には、左横書きは「米英崇拝」であるという国粋主義的な思想の影響もあって、右横書きを用いるべきだという圧力もあったようですが、戦後になると社会全体がなだれを打ったように、左横書きになっていったとのことです。
上の広告葉書の頃も、両方が混在していた時代なのでしょうが、下方の葉書では「1924,11,15」というアラビア数字はどうしても左横書きにせざるをえないので、それに引きずられる形で、上の行の「◎新刊書御案内◎」も左横書きにされたのでしょうか。
伊藤
突然のコメント失礼いたします。
株式会社ループスプロダクションの伊藤と申します。
弊社は出版社から書籍やムック本の編集・制作を請け負っております。
現在、弊社では宝島社という出版社から発刊されます
「宮沢賢治100の言葉」という本を制作しております。
その企画の中で「宮沢賢治の詩の世界」で紹介されている、「文の多い料理店」のハガキ広告のお写真をお借りさせていただきたく、ご連絡差し上げました。
いきなりのお願いで大変不躾ではございますが、下記までお返事いただけますと幸いでございます。
株式会社ループスプロダクション
伊藤 麻友美
〒101-0061
東京都千代田区三崎町3-8-4
江戸川ビル3階
TEL:03-3221-5401
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伊藤
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