桂橋際の「万甚さん」(1)

 1916年(大正5年)に盛岡高等農林学校の修学旅行で、賢治たち一行が最初に京都に到着した際の様子は、『【新】校本全集』年譜篇では、次にように記されています。

三月二三日(木) 曇。午前四時九分京都駅着。東西本願寺を訪れ、桂橋際の万甚楼に六時到着。

 ここに出てくる「万甚楼」というのは、名前からして料理屋か旅館のようで、おそらく修学旅行生一行は、この「万甚楼」で朝食をとってしばし休憩でもしたのではないかと想像されるのですが、その「万甚楼」とは具体的にどこにあってどんなお店だったのか、京都に住む私にとってずっと疑問のままでした。これまでネットや図書館で調べた範囲では、わからずにいたのです。

 ところが、先月ふとしたことで Web 検索をしている時に、「京のお菓子歳時記六月号<2008>」というメールマガジンのバックナンバーを見つけました。そしてそこには、

戦前中村軒の隣は万甚さんという川魚の料亭があって、舟を桂川に浮かべ、とった鮎を食べさせてはったけど、その万甚さんも今はなくなってしまいました。

という記述があるではありませんか。

 「中村軒」という老舗のお菓子屋さんは、まさに桂橋(現在の桂大橋)のすぐ近くにあるようですから、ここに出てくる料亭「万甚さん」こそ、以前から探していた「万甚楼」のことではないかと、胸を躍らせた次第です。

 その後、「中村軒」さんにメールを出したり、電話でお話を聴いたり、そして先日の日曜日には、直接「中村軒」を訪ねて、美味しいかき氷をいただきながら、「万甚さん」についてお女将さんからお話をお聴きしてくることができました。
 そして、やはり中村軒の隣にあった「万甚」(別館)こそ、賢治たち修学旅行生一行が訪ねた「万甚楼」だったと、確信するに至りました。

 その詳細については、まだもう少し資料を整理しなければならないのであらためて次の機会にご報告をさせていただくことにしますが、とりあえず下の写真は、まだ残っていた頃の「万甚」の建物です。(『桂東学区自治連合会20周年記念誌』より)

 左端の方に見えているのが桂橋、右側の建物が「万甚」、さらに右端に縞模様の「ビニールひさし」が少しだけ見えるのが、「中村軒」です。
 下の説明には、「昭和48年、桂大橋西詰にあった料亭「万甚」」と書かれていますが、実際には料亭「万甚」は戦後間もなくに廃業してしまい、この写真の時点では川向かいの会社が買い取って、社員寮として使用していたということです。

 しかし、建物は大正時代のそのままで、修学旅行で賢治たちが朝食をとったのも、おそらくこの屋根の下だったわけです。

在りし日の「万甚」の建物

 ご親切にも、あらかじめご近所に「万甚さん」の記憶についていろいろと尋ねていただいたり、様々な資料をお貸しいただいた中村優江さんに、あらためて心から感謝申しあげます。