東京国立博物館で開かれている「国宝 阿修羅展」は、先週ついに入場者50万人を突破したそうです。
今や、「人気、実力ともに仏像界のスーパースター」(彫刻家・籔内佐斗司氏)と言われるほどの興福寺「阿修羅像」ですが、賢治との関係を考える時、「修羅」に対する彼のひとかたならぬ思い入れや、1921年(大正10年)に賢治が父と関西旅行をした際に、「興福寺門前の宿に」泊まったと言われていることから、賢治もこの仏像と対面していたのではないかという推測をしてみることは、一つの魅力的な仮説です。
今日は、そのことについて考えるために、興福寺「阿修羅像」の来歴について、少し調べてみました。
現在の興福寺「門前?」の旅館群(後ろは興福寺五重塔)
1.阿修羅像の履歴と評価
まず歴史的には、藤原氏の氏寺であった興福寺は、平安時代はもとより鎌倉・室町時代になっても、絶大な権力を維持していました。鎌倉・室町いずれの幕府も、そのため大和国には守護を置くことができず、興福寺が大和国の実質的な支配者だったわけです。近世以降は、ひとまず武家の支配体制に組み入れられて行きましたが、それでもその春日社と併せた広大な領地と権威は、保たれていました。
しかし明治維新に伴い、神仏分離・廃仏毀釈の嵐が吹き荒れると、春日社と一体となっていた興福寺は、深刻な弾圧を被ります。寺領は没収され、僧は春日社の神職とされ、境内は塀が壊されて「奈良公園」になってしまいました。実は現在の広大な奈良公園は、明治維新までは興福寺の境内だったわけですね。(参考:Wikipedia「興福寺」)
これによって一時はほとんど廃寺同然となっていたという興福寺ですが、1881年(明治14年)に再興が許可され、徐々に諸堂塔も修理が施されていきました。しかし、現在に至ってもその傷跡はまだ修復されたとは言い難く、今も興福寺には「門」はおろか「塀」も存在しません。小倉豊文氏や堀尾青史氏が、賢治父子が「興福寺門前の宿」に泊まったと記述しているにもかかわらず、その場所が特定しにくいのは、このお寺に「門」がないからです。
このような明治初期の受難は、興福寺が所蔵する厖大な仏像にも影響しました。下の写真は、1888年(明治21年)に撮影されたものですが、現代のスーパースター「阿修羅像」も、当時はまるで物置に入れてあるような雰囲気で、後に国宝となる他の仏像とともに、雑然と収納されてまいす。なんか可哀相になるほどですね。(東京国立博物館・古写真データベースより)
この収納場所は「東金堂」という現在もある堂宇ですが、拡大写真で見ると、「阿修羅像」の胸の前で合わせた手は、損傷しているようにも見えます。
さて、次いで1895年(明治28年)に、「帝国奈良博物館」(後に「奈良帝室博物館」)が開館すると、奈良・飛鳥の諸寺の仏像のうちかなりの部分は、この博物館に寄託・展示されました。興福寺の仏像も博物館に移されましたが、これらが寺に戻れるのは、実に1959年(昭和34年)に興福寺境内に「国宝館」が完成してからでした。
「阿修羅像」を含む興福寺の「八部衆像」が博物館に寄託されたのがいつのことだったか、その正確な時期は今日調べた範囲ではちょっとわからなかったのですが、下に和辻哲郎著『古寺巡礼』を引用してみます。和辻哲郎がこの著書に記す奈良の仏像めぐりをしたのは、1918年(大正7年)5月のことでした。
まず、奈良巡礼1日目に興福寺を訪ねた箇所。(五)
興福寺の金堂や南円堂にはいってみたが、疲れて来たのであまり印象は残らなかった。しかし南円堂では壁の画が注意を引いた。
晩の食卓では昨夜のような光景をながめながら、Z君にアメリカのホテルの話をきいた。
かの名著誉れ高い『古寺巡礼』において、「興福寺」の項はたったこれだけなんですね。
それでは、和辻哲郎が「巡礼」の三日目の朝、「博物館」を訪れた際の記述を見てみましょう。彼は、そこで出会った「聖林寺十一面観音」と「法隆寺百済観音」について、讃歎の筆を長々と尽くした後に、次のように記します。(七)
興福寺の諸作は健陀羅(ガンダーラ)国人問答師の作と伝えられている。その真偽はとにかくとして、あの十大弟子や八部衆が同一人の手になったことは疑うべくもない。その作家は恐らく非常な才人であった。そうして技巧の達人であった。けれどもその巧妙な写実の手腕は、不幸にも深さを伴っていなかった。従ってその作品はうまいけれども小さい。
この作家の長所は、幽玄な幻像を結晶させることにではなく、むしろ写実の警抜さに、あるいは写実をつきぬけて鮮やかな類型を造り出しているところに、認められなくてはならぬ。釈迦の弟子とか竜王とかいうことを離れて、ただ単に僧侶あるいは武人の風俗描写として見るならば、これらの諸作は得難い逸品である。ことに面相の自由自在な造り方、――ある表情もしくは特徴を鋭く捕えて、しかも誇張に流れない、巧妙な技巧と微妙な手練、――それは確かに人を驚嘆せしめる。竜王の顔において特にこの感が深い。
ここに看取せられるのは現実主義的な作者の気稟である。それによって判ずれば、この作者がシナにおいて技を練ったガンダーラ人であるということは必ずしもあり得ぬことではない。しかしわれわれの見分した限りでは、この作に酷似する作品はシナにも西域にも見いだされない。またあの器用さ、鋭さ、愛らしさ、――それは茫漠たる大陸の気分を思わせるよりも、むしろ芸術的にまとまった島国の自然を思わせる。従ってこの作者が我が国の生み出した特異な芸術家であったということも、許されぬ想像ではない。興味をこの想像に向ければ、「問答師」なる一つの名は愛すべく珍重すべき謎となるであろう。
すなわち、ここで明らかになったことは二つあります。
一つは、1918年(大正7年)当時すでに興福寺の八部衆像は、奈良帝室博物館において展示されていたこと。したがって、1921年(大正10年)に賢治父子が奈良に来た際にも、「阿修羅像」は興福寺ではなく博物館にあったことになります。
もう一つは、和辻哲郎はこの「阿修羅像」を含めた「八部衆像」「十大弟子像」を、あまり高く評価していなかったということ。「その作品はうまいけれども小さい」と断じています。しかも、八部衆のうちで「竜王」(=沙羯羅像)の名前は出てきますが、「阿修羅」は名前すら出てきません。これは、現代の阿修羅人気からすると意外な感じがしますが、仏教美術に造詣の深かった和辻哲郎にしてこうなのですから、当時においてはこれが現実だったのでしょう。
2.賢治は阿修羅像を見たか
以上から、賢治が興福寺「阿修羅像」を見たか、という問題は、父子がこの旅行において奈良帝室博物館を参観したか、という問題に置き換えてみることができます。
彼らが奈良で博物館に入ったということは、賢治の短歌にも、佐藤隆房、小倉豊文、堀尾青史の三氏の記録にも残されていません。
まず、佐藤隆房『宮沢賢治』では、奈良における父子の行動は次のように書かれています。
春日神社の入口の近くにある旅宿に旅装を解きました。次の日は晴れた日で、奈良の名所を見て回りましたが、大仏も春日大社も、像法の残骸としか感じない賢治さんには、信仰をそそるなにものもなく、猿沢の池やや若草山の鹿にも大した感興もなかったらしく、連日の旅行のくたびれを奈良の第二夜にいやし、次の朝、父とともに奈良を発って東京に帰りました。
次に、小倉豊文「旅に於ける賢治」から。賢治短歌の引用と、地名の一般的解説は略してあります。
雨雲と夕べの色におわれるように奈良駅に着いた二人は、三条通を急いで、興福寺門前の宿に入つた。(中略) 翌日第五日は朝から奈良公園を一まわりした。「奈良公園」二首。(中略)
父子二人はこの「ま昼のなかの月明り」(引用者注:馬酔木の花のこと)の下びを春日の本社に詣り、それからその裏手にまわつて水谷川をわたり、嫩草山の麓、武蔵野のあたりに出たのであろう。このあたりにも馬酔木の花は点々とつゞいてゐる。「春日裏坂六首」はこの辺りの作らしい。(中略)
嫩草山から手向山神社、三月堂二月堂から東大寺大仏殿と普通の奈良見物の経路を一廻りしたものと思はれるが、それらについての歌は一首も残つてゐない。一廻りして宿に近い猿沢の池の畔に出て来たのであろう。ここで「さる沢」三首の詠が残されてゐる。(中略)
さて父子二人の関西巡礼はこの奈良で終り、この日奈良駅から関西線上り列車に乗り、名古屋駅で夜行に乗り換え、その翌朝東京に帰つて来たのであつた。
最後に、堀尾青史『年譜 宮澤賢治伝』から。
第五日、奈良見物。馬酔木林の花を月かと眺めゼンマイしかけの鹿の人形を売る少年に心を寄せ、猿沢池の柳に昔をしのぶ。関西線で名古屋へ出、東海道線にのりかえ、東京へ。
おそらく父政次郎氏からの聞き書きと思われる三氏の記録のいずれにも、「奈良帝室博物館」に行ったという記載はありません。もちろん、だから行かなかったと断定することはできませんが、以前にも書いたようにこれら三つの情報は一応独立して政次郎氏から得られていると推測できますので、そのどれにも含まれていないということは、一つの否定的な論拠にはなるでしょう。
それから、そもそもこの父子の関西旅行の性格を考えてみると、これは専ら「宗教的」な意味を帯びた企画でした。目的地もそうでしたし、途上における二人の心構えもそうだったでしょう。ところで「博物館」を参観するということは、対象がたとえ仏像だったとしても、信仰によって見るのではなく、美術品として見るというスタンスを取ることにならざるをえません。
宗教的「巡礼」という二人の目的からして、わざわざ「博物館」に入るということはしなかったのではないかと、私は思うのです。
すなわち、賢治は興福寺「阿修羅像」とは、対面していなかっただろうというのが、現時点での私の考えです。
3.「阿修羅像」の評価の変化
さきに、和辻哲郎は興福寺の「八部衆像」を仏像としてあまり評価せず、その中の「阿修羅像」に至ってはほとんど注目していなかったと思われることを述べました。
しかし、さすがに彼が「八部衆像」や「十大弟子像」について述べている観察は、その評価が大きく変わった現在から見ても、共感できるところが多々あります。「この作家の長所は、幽玄な幻像を結晶させることにではなく、むしろ写実の警抜さに、あるいは写実をつきぬけて鮮やかな類型を造り出しているところに、認められなくてはならぬ」、「ことに面相の自由自在な造り方、――ある表情もしくは特徴を鋭く捕えて、しかも誇張に流れない、巧妙な技巧と微妙な手練、――それは確かに人を驚嘆せしめる」、「ここに看取せられるのは現実主義的な作者の気稟である」云々は、まさにそのとおりであると、私も思います。
また、これらの興福寺の像に関して、「あの器用さ、鋭さ、愛らしさ、――それは茫漠たる大陸の気分を思わせるよりも、むしろ芸術的にまとまった島国の自然を思わせる」と感じとるところなどは、後に『風土』を著すことになる人ならではのセンスだと思います。
上のように具体的な点においては現代のわれわれの見方と共通しながらも、ただ、「仏像として」どう評価するかという点において、和辻哲郎には彼なりの考えがあって、それに応じた「八部衆像」の見方になっているのでしょう。それは、岩波文庫版『古寺巡礼』の巻末の「解説」で、谷川徹三が和辻哲郎のことを、「イデーを見る眼を強力に持った人」と評していることから、何となく理解できるように思います。和辻哲郎が仏像において評価するのは、その像がどのような「イデー」を宿しているか、というところだったのだと考えれば、たしかに「阿修羅像」よりも超越的なものを深く象徴する仏像は、他にもっとたくさんありますね。
現代の私たちが「阿修羅像」の魅力として感じるのは、そのあまりに人間的な表情、切実さ、「現実主義的な作者の気稟」、といったものだと思います。私たちにとって多くの仏像は、茫漠とした表情をして何を考えているのかわからない様子で、身体もずんどうで「かっこよく」はありませんが、阿修羅像は、真に迫る活き活きした表情をしているし、肢体のしなやかさも魅力的なのです。
ところで、昔は評価されていなかった「阿修羅像」が、いかにして現代の「スーパースター」に昇りつめていったのかという点にも、少し興味が湧きます。
一つの評価は、まだ博物館時代の1941年(昭和16年)10月に、堀辰雄が書いた『大和路』に見てとれます。
もう十一時だ。僕はやつぱりこちらに來てゐるからには、一日のうちに何か一つぐらゐはいいものを見ておきたくなつて、博物館にはひり、一時間ばかり彫刻室のなかで過ごした。こんなときにひとつ何か小品で心愉しいものをじつくりと味はひたいと、小型の飛鳥佛などを丹念にみてまはつてゐたが、結局は一番ながいこと、ちやうど若い樹木が枝を拡げるやうな自然さで、六本の腕を一ぱいに拡げながら、何処か遙かなところを、何かをこらへてゐるやうな表情で、一心になつて見入つてゐる阿修羅王の前に立ち止まつてゐた。なんといふうひうひしい、しかも切ない目ざしだらう。かういふ目ざしをして、何を見つめよとわれわれに示してゐるのだらう。
それが何か人間の奥ぶかくにあるもので、その一心な目ざしに自分を集中させてゐると、自分のうちにおのづから故しれぬ郷愁のやうなものが生れてくる。――何かさういつたノスタルヂックなものさへ身におぼへ出しながら、僕はだんだん切ない気もちになつて、やつとのことでその彫像をうしろにした。
これは、まさに現代の私たちの感覚を、すでに戦前に代弁してくれているような文章ですね。
その少し後の1943年(昭和18年)11月には、会津八一が阿修羅像を題材に、次の二首の短歌を詠んでいます(『山光集』より)。
ゆくりなき もの の おもひ に かかげたる
うで さへ そら に わすれ たつ らしけふ も また いくたり たちて なげき けむ
あじゆら が まゆ の あさき ひかげ に
二首目を見ると、すでにこの時点でも阿修羅像が一定の人気を集めていたことが示唆されているようでもあります。
おそらく、堀辰雄の文章などは、一般の人々、とりわけ文学青年なんかに「阿修羅像」の魅力を広める上で、大きな影響力があったのではないでしょうか。
結局、現代の私たちも堀辰雄のように、この仏像の背後に超越的なものを見ようとするよりも、「人間」を見ようとしているのかと思います。
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