文語詩「硫黄」の舞台(1)

1.「大森山」はどこか?

 『文語詩稿一百篇』に、「硫黄」という作品があります。

   硫黄

猛しき現場監督の、    こたびも姿あらずてふ、

元山あたり白雲の、    澱みて朝となりにけり。


青き朝日にふかぶかと、  小馬(ポニー)うなだれ汗すれば、

硫黄は歪み鳴りながら、  か黒き貨車に移さるゝ。


 これは、鉱山から積み出された硫黄の原石を馬が運び、夜が明ける頃に目的地に着いて、馬は荷役から解放されて硫黄は貨車に移されるという経過を描いたものですが、この硫黄鉱山がどこだったのかということに関しては、これまでもかなりの議論がなされてきました。
 そしてこの問題は、一つの作品の舞台がどこだったのかということにとどまらず、その「下書稿(一)」の書き出しが、

大森山の右肩に
二十日の月ののぼるころ
棒の硫黄をうち積みて
峡の広場をいで立ちぬ

と始まることから、「経埋ムベキ山」の一つである「大森山」を同定する上でも、大きな意味を持ってくるのです。

 32座の「経埋ムベキ山」の中でも、とりわけ「大森山」は、候補がいくつもあってなかなか一つに絞りきれない厄介な山でした。小倉豊文氏は、『宮沢賢治「雨ニモマケズ手帳」研究』において、次のように書いておられます。

「大森山」、花巻市内でも同名の山が二つある。(a)豊沢川の中流の鉛温泉東方にある標高五四三.六メートルの山、(b)その七~八キロ下流に西方から豊沢川に合流する三ツ沢川の約四キロ上流右岸にある四二〇メートルの山。この「大森山」なる山は県下にすこぶる多く、花巻市に比較的近くにも紫波郡紫波町の西部山地にも「大森山」があり、盛岡周辺にもいくつかあるが、恐らく上記(a)(b)の何れかであろう。

 上記(a)(b)以外にも、新花巻駅の1.6kmほど北東には、小さいながらも端正な姿を見せる大森山(199.2m)があって、この山は美しい円錐形のために、賢治の絵画「日輪と山」のモデルではないかという説もあるほどなのです。これにも注目せざるをえませんので、この大森山を、(c)としておきます。

 ところで、「雨ニモマケズ手帳」において「経埋ムベキ山」が書かれている配列には、ある程度近くにある山がまとまって記されているという特徴があって、「大森山」の周辺は次のようになっているのです。

                   堂ヶ沢山、
    江釣子森山 松倉山、 高倉山
    大森山 草井山 八方山 台山、松倉山

 この並び方から、この「大森山」は、花巻の町よりも西方、八方山や松倉山からそう遠くない場所にある大森山だろうという推測をすることができます。そうすると、新花巻駅の近くにある大森山(c)は候補から除外されて、小倉豊文氏の言う(a)(b)のいずれか、というのがやはり妥当な線と思われるのです。

 そこにさらに、「硫黄(下書稿(一))」に「大森山」が登場するとなると、それは賢治の思いを推し量る上で、やはり有力な一つの手がかりになります。もちろん、「作品に出てくるからその山が経埋ムベキ山である」と単純に断定することはできませんが、それでもかなり有力なポイントにはなるでしょう。

 というわけで、文語詩「硫黄」の舞台はどこだったのか、そこに描かれた「大森山」はどれだったのか、ということに私は非常に興味を引かれるのです。

2.これまでの議論

 文語詩「硫黄」の原型となったのは、1918年(大正7年)の土性調査の際の、次の短歌であると考えられています。

642 夜はあけて
   馬はほのぼの汗したり
   うす青ぞらの
   電柱の下。

643 夜をこめて
   硫黄つみこし馬はいま
   あさひにふかく
   ものをおもへり。

 まず、宮城一男氏は、「賢治短歌の地質学」(『弘前・宮沢賢治研究会会誌 四』)において、「この短歌(643)はおそらく岩手県松尾鉱山(当時日本一の硫黄鉱山)から、硫黄原石が馬車で運ばれてゆく鉱山風景をうたったものであろう。」と述べました。
 これに対して中谷俊雄氏は、「弘前賢治研究会誌 四を読んで」(『賢治研究42』)において、「これは花巻駅の朝の風景であり、硫黄鉱山は鉛温泉の奥にあった鶯沢鉱山である。」としました。
 『新宮澤賢治語彙辞典』の「硫黄」の項にも、「鉛温泉の北、高狸山の中腹には鶯沢硫黄鉱山があった。「猛しき現場監督の、こたびも姿あらずてふ、/元山あたりの白雲の、澱みて朝となりにけり」(文語詩[硫黄])とある元山もこの鉱山の採鉱現場のこと。」と記されています。

 このように、文語詩「硫黄」の舞台は、鉛温泉の奥の「鶯沢鉱山」ということがいったんは定説となったかに見えました。そしてその場合は、「下書稿(一)」に出てくる「大森山」は、鉛温泉の東方にある「大森山(543.6m)」、すなわち小倉豊文氏の言う(a)ということになります。
 なお、当時の鶯沢鉱山から花巻駅までの硫黄鉱石の輸送方法は、鉱山(元山)から西鉛までは鉄索(ケーブル)による輸送、西鉛から志度平までは馬車鉄道、志度平から花巻駅までは電車、という形態でした。

 ところがこれに対して細田嘉吉氏は、1999年の宮沢賢治学会研究発表会において、「文語詩「硫黄」の背景と輸送経路」と題した発表を行い、文語詩「硫黄」の舞台は鶯沢鉱山ではなく、その北北東2.5kmほどのところにあった「大噴鉱山」だったという説を提唱されました。
 細田氏の説は、『宮沢賢治文語詩の森 第二集』(柏書房)における「硫黄」の評釈や、細田嘉吉著『石で読み解く宮沢賢治』(蒼丘書林)において読むことができます。それらの内容を要約すると、まず文語詩「硫黄」の舞台を「鶯沢鉱山」と考えた場合に無理が出てくる点として、次のような問題が挙げられています。

  1. 鶯沢鉱山は、1917年(大正6年)までは活発に操業していたが、欧州大戦の余波を受けて1918年(大正7年)7月にはいったん休山を余儀なくされており、賢治が土性調査に入った1918年4月~5月の時点において、どれだけの鉱石輸送が行われていたか疑問が残る
  2. 西鉛から志度平までの8kmの馬車鉄道は、所要時間も2時間足らずで、「二十日月ののぼるころ」つまり真夜中に出発し「夜をこめて」運搬する必要はなかった
  3. そのコースは豊沢川沿いではあるが、川からは少し離れていて、「かのましろなるきり岸」「川あおじろく鳴りにけり」といった場所もない
  4. 馬車鉄道の終点・志度平温泉は山間の温泉で、ここまでには「東しらみて野に入れば」といった情景に合致するところも見あたらない
  5. 鶯沢鉱山の硫黄輸送は元山から花巻駅まで一貫体制で、西鉛から志度平まで馬力で運ばれた硫黄は、ここで積み替えられることなく、同じ貨車のまま電気機関車に切り替えられ運ばれることになるので、志度平で「か黒き貨車に移さるゝ」ということはなかった

 上の諸点のうち 3.に関しては、私自身の先日の経験では川音が間近に聴こえる場所もあったので、私としては留保させていただきますが、他の点はすべてもっともな指摘だと思います。
 そして細田氏は、「大噴鉱山」と考えた場合に作品内容と符合する点として、次のような事柄を挙げておられます。

  1. 大正4~7年当時、大噴鉱山の硫黄は二輪の馬車で石鳥谷駅まで運ばれていたという大瀬川集落の古老の証言があり、『石鳥谷町誌』にも石鳥谷駅積み出し荷の記録として、「硫黄」が記載されている
  2. 使われた馬は北海道のいわゆる「道産子」で、すなわち小型の馬だったという証言もあり、「小馬(ポニー)」という作品中の描写と合う
  3. 大噴鉱山から石鳥谷駅まで約20kmで、6~7時間を要したと推定され、日中の日差しを避けて夜中に運搬を行ったと考えれば、作品と符合する
  4. 葛丸川に白い流紋岩の露頭があり、「かのましろなるきり岸」という表現と合致する
  5. 葛丸川に沿って西向きに山道を下り、大瀬川集落に至るあたりは、「東しらみて野に入れば」という表現が似つかわしい


 これらも、いずれも納得のいく説明です。とりわけ、5.の地理的条件は、鶯沢鉱山から豊沢川沿いに馬車鉄道で志度平に向かう場合にはしっくりこないところで、葛丸川沿いの方が作品の雰囲気と合う感じがします。
 それから、2.に関連して、「下書稿(一)」の推敲過程では、「北海」と書いて削除してから「ポニー」と書き換えている箇所があることを、私からも付記しておきます。もちろん、西鉛~志度平の馬車鉄道にも、「道産子」が使われていた可能性はあるのですが、少なくとも大噴鉱山には上の 2.の証言があります。

 このように、とても説得力があると思われる細田氏の「大噴鉱山説」なのですが、それではこの説によれば、冒頭に問題にした「大森山」はどうなるのでしょうか。
 これに関して細田氏は、次のように述べます(『石で読み解く宮沢賢治』p.64)。

 "大森山"という名の山は、方々にある。この地方でよく知られているのは鉛温泉の東1kmにある大森山であるが、葛丸川上流の割沢集落の北方3kmにも大森山(441m)がある。しかし、残念ながらこちらの大森山はイメージが弱い。

 これは、上で小倉豊文氏が「紫波郡紫波町の西部山地にも「大森山」があり……」と触れていた山ではないか思うのですが、とりあえずこれを(d)としておきます。

 ちなみに、下の地図で赤色の(1)のマーカーが鶯沢鉱山、(2)のマーカーが大噴鉱山です。また、鉛温温泉の東にある緑色の(A)のマーカーが「大森山(a)」、上端右の(D)が「大森山(d)」です。

 (1)鶯沢鉱山からは、「鶯沢」という沢に沿って索道があり、「鉛温泉」と書いてある少し北から馬車鉄道が始まっていました。さらに南の志度平温泉からは、電車になります。「松倉温泉」あたりまで来ると、やっと「野に入る」という感じになってきます。
 一方、(2)大噴鉱山からは、まず北東の方に行って葛丸川に出て、川沿いに東へ進みます。地図をドラッグしていただくと出てくる「葛丸ダム」は賢治の時代にはなく、これを過ぎて県道(13)に出るあたりが、大瀬川の集落です。

 などと書いているうちにすでに長くなりすぎてしまいましたので、申しわけありませんが、続きは次回とさせていただきます。
 ただ、次回の問題を予告的に述べさせていただくと、実は(1)(2)どちらの鉱山から見るにせよ、また(a)(d)どちらの大森山の方角を眺めるにせよ、「大森山の右肩に/二十日の月がのぼる」という情景が見えることは、現実にはありえないのです。