東京の「宮沢賢治研究会」が、来週10月11日(土)~12日(日)にかけて、「比叡山ツアー」を開催されます。1921(大正10年)年の短歌「比叡」12首の跡をたどり、有志は賢治父子の比叡山越えのルートも踏破してみようという、意欲的な企画です。
私は、その11日の夜に、宿舎の延暦寺会館で、賢治の関西旅行について話をせよと言われたので、花巻から帰ってから2週間は、その準備に追われていました。
賢治が関西地方にやって来たのは、1921年(大正10年)の父子旅行と、その5年前の1916年(大正5年)に、盛岡高等農林学校の修学旅行として京都・大阪・奈良・大津をめぐった時の、2回ありました。11日には、両方の旅行について話をさせていただくつもりで、例によってパワーポイントの資料作成をしています。
ところで、1916年の盛岡高等農林学校の修学旅行に関しては、『【新】校本全集』第十四巻にも掲載されている、「農学科第二学年修学旅行記」(校友会報)という記録があって、参加した学生が分担して旅行の行程や訪問地の詳細を書いてくれています。これは、当事者自身による同時代的記録であり、歴史学における史料批判で言うところの「一次史料」にあたります。一般的には、信頼性が高いと期待できるものです。
これに、賢治が修学旅行中に詠んだと推定される短歌「大正五年三月より」 256-260 を合わせれば、旅行中の賢治の感慨も、それなりに推し量ることができるでしょう。
一方、1921年の父子旅行に関しては、賢治の短歌は「歌稿〔B〕大正十年四月」 775-800 が残されていますが、賢治あるいは政次郎氏が直に書き残した「一次史料」というべきものは、存在しません。
そこで私たちとしては、その欠落を埋めるために、後年に研究者が政次郎氏から聞き書きをした「二次史料」によって、旅行の詳細を推測するという方法を取らざるをえません。
そのような「二次史料」としては、私の知る限りでは、次の三氏によるものがあります。
- 佐藤隆房: 宮沢賢治. 冨山房. 東京, 1942
- 小倉豊文: 旅に於ける賢治. 四次元 第三巻第二号, 1951
- 小倉豊文: 傳教大師 比叡山 宮澤賢治. 比叡山 復刊第三十一號(通刊256號), 天台宗務庁, 1957
- 小倉豊文: 宮沢賢治『雨ニモマケズ手帳』研究. 筑摩書房, 東京, 1996
- 堀尾青史: 年譜 宮澤賢治伝. 中央公論社, 東京, 1991
佐藤隆房、小倉豊文、堀尾青史の三氏のいずれも、政次郎氏と直接に話をする機会が何度もあった人ですし、その記述内容を見ると、それぞれオリジナルなものです。堀尾青史氏の『年譜 宮澤賢治伝』の記述は簡潔で、オリジナルな部分は少ないように見えますが、例えば父子の東京での別れに関して、「午前に東京駅に着いて、午後に父を上野駅に見送った」ということが書かれているのは、この資料だけです。
上記以外では、例えば関登久也著『宮沢賢治物語』(岩手日報社, 1957)も、父子関西旅行の経過について記していますが、その内容は、佐藤隆房『宮沢賢治』の記述内容を要約したものであり、政次郎氏からのオリジナルな聞き書きではないようなので、ここには含めていません。
ということで、今度の話の準備として、上記三氏による「父子関西旅行」に関する記述を比較対照する表を作ってみました(下記PDF文書)。
三氏の間でも記述内容にいろいろ食い違いがありますし、それから小倉豊文氏の記載は最も詳しいのですが、政次郎氏から直に聞いた事と、小倉氏が推定した事が、渾然一体となっている部分もあって、慎重な検討を要するでしょう。
しかしとりあえず11日には、これをもとに父子の比叡山登山・下山ルートや、叡福寺参拝を中止した経緯などについて、また旅行そのものの意味について、考えてみたいと思っています。
かぐら川
「宮沢賢治研究会」さんとhamagakiさんの“意欲”のぶつかりあいのおかげで、またいい勉強をさせてもらえそうです。京都に行く機会がないわけではないのですが、それが可能なうちに、――愚息があと1年京都に在学?しているはずなので――、hamagakiさんの労作に学んで、中京都賢治紀行をしてみたいものだと思っています。
hamagaki
かぐら川さま、こんばんは。
比叡山では、ちゃんとしたお話ができるか自信はありませんが、また賢治が好きなたくさんの方々とお会いできるのは、楽しみです。
もしも京都へお越しの節は、ご一報をいただければ、「賢治紀行」のお供などさせていただきます。(^_^)