今日は、かぐら川さんがたまたま京都に来られていて、ご一緒に三十三間堂に行ったり、賢治父子が訪れたと思われる「中外日報社」の旧社屋を見に行ったりしました。
帰宅後、「石碑の部屋」の中に、先日に花巻市東和町で撮影してきた「冬と銀河ステーシヨン」詩碑のページを作ってアップしました。
それにしても、今日の京都の最高気温は29℃ということで、道を歩くとまさに夏の暑さ・・・。
賢治の作品や生涯/ハイパーリンクされた詩草稿/賢治が作った歌曲/全国の文学碑…
今日は、かぐら川さんがたまたま京都に来られていて、ご一緒に三十三間堂に行ったり、賢治父子が訪れたと思われる「中外日報社」の旧社屋を見に行ったりしました。
帰宅後、「石碑の部屋」の中に、先日に花巻市東和町で撮影してきた「冬と銀河ステーシヨン」詩碑のページを作ってアップしました。
それにしても、今日の京都の最高気温は29℃ということで、道を歩くとまさに夏の暑さ・・・。
かぐら川
hamagakiさん、一昨日は私の突然のわがままにおつきあいいただきまして有難うございました。私の京都歩きのメモを書いたブログをトラックバックさせていただきました。
ところで京都歩きで意図せずに出会った「田辺朔郎」と「琵琶湖疎水」。この時期の賢治はともかく、同行していた父・政次郎は、この琵琶湖疎水に大きな関心を持っていたのではないでしょうか。政次郎は、花巻でも積極的に鉄道、電気、温泉といった基本的な社会資本の形成に投資家として、同時に経営陣の一人としても関わっていたのですから、琵琶湖疎水のような大規模なインフラについては、関心がないはずはないと思うのです。比叡から京都に入る道筋をたどりながらこの琵琶湖疎水と、この建設にたずさわった若き土木技術者についても親子の間で話題になったのではないかと愚考するのですが、どうでしょう。
東京で国柱会という新興の宗教団体に飛び込み、さらに文士のまねをしている息子に、「頭を冷やせ、足を地に着けろ」と語りかけようとすれば、実業に賭けた青年の話――この疎水の建設にたずさわっていた田辺朔郎と賢治は年代的にはまったく同じ20代中頃でした!――は、なかなか有効なものではなかったでしょうか。
・・・と、こんな虚構を楽しんでみました。
かぐら川
“大正10年当時の賢治は「琵琶湖疎水」について知らなかっただろし、興味ももっていなかっただろう”という憶測(というよりは決めつけ)のもとに、「父・政次郎と琵琶湖疎水」というところから、上のコメントは話を始めたのですが、このときの父・政次郎との比叡、京都、伊勢という旅程が、賢治にとって初めてのものではないことを思い出して、修学旅行(大正5年)の行程をhamagakiさんの「賢治日めくり」で、確認させていただきました。
驚いたことに、修学旅行の最後の二日間はこうなっていました。
・1916年3月26日(日)(賢治19歳)
晴れ。19日から盛岡高等農林学校の修学旅行に出ている賢治ら一行は、八日目のこの日、朝8時に京都の宿を出て、京津電車で大津へ行き、三井寺に参詣した。次に湖南汽船で琵琶湖を石山に渡り、石山寺に参詣した。再び石山から(中略)、滋賀県立農事試験場に向かった。 農事試験場では、稲の品種改良や病虫害について説明を受け、電車で大津に戻ると、一行はここで二班に分かれた。一つの班は、三保ヶ崎から船で琵琶湖疏水を下り、インクラインを通って京都の蹴上に至り、もう一つの班は、汽車で京都に向かった。 一同が京都の宿に着いたのは午後6時だった。夜は茶話会があり、学生や教師がそれぞれ旅行中の感想を述べた。
・1916年3月27日(月)(賢治19歳)
(一部略)賢治ら一行は、九日目のこの日、朝9時に京都の宿を出て、三十三間堂から清水寺を観光し、次いで南禅寺付近で蔬菜の促成栽培を見学した。ここでいったん解散したが、大部分は岡崎の動物園で遊び、夕刻にはまた旅館に戻った。 これで修学旅行の全行程は終了したが、賢治を含む有志12名は、翌日に伊勢神宮を参詣してから帰ることになった。
ここで、hamagakiさんにお聞きしたいのが、《3月26日》の行動です。農林学校の一行は、2班にわかれ、一つの班は「琵琶湖疏水を下り、インクラインを通って京都の蹴上に至」る行程だったのですね。賢治は、この「疎水・インクライン班」だったのでしょうか、「汽車班」だったのでしょうか。明記してないということは記録が残っていないのでしょうか・・・。
いずれにせよ、賢治は琵琶湖疎水のことを、20代の時点で知っていたと考えてよさそうです。そしてその後、彼なりの興味からこの疎水のことをより深く知るようになったことも想像されますね。
あっ、そうそう、賢治は「三十三間堂」を見学しているのですね。とすれば、私とhamagakiさんは93年前の賢治の旅の一部を、一緒に追体験したことになるのですね。賢治の三十三間堂の感想も聞いてみたいですね。
hamagaki
かぐら川さま、先日はありがとうございました。私も田辺朔郎や片山東熊のことについて、とても勉強になりました。
さて、賢治の盛岡高等農林学校修学旅行における大正5年3月26日の行動ですが、ご推測のとおり、賢治が大津から京都まで「インクライン班」で帰ったのか、「汽車班」だったのか、同定できる資料はないようです。
同校の「校友会会報」に掲載された修学旅行の記録では、賢治の同級生の三木敏明が3月26日の項を担当しており、三木は「インクライン班」だったようですが、そこには次のように記録されています(新校本全集第十四巻校異篇)。
三木が「疏水の三つのトンネル明治十五年頃の工事としては大事業であつたと思はれた」と感じとったように、第一トンネルは長さ2436m、当時は日本最長のトンネルで、途中に二ヵ所の「竪坑(シャフト)」を設けるという日本初の工法を採用したそうです。また、田辺朔郎が工事途中に世界初の水力発電所であるアメリカ・コロラド州のアスペン発電所(1888年完成)を視察し、1891年には蹴上に世界で三番目の水力発電所(一般営業用発電所としては世界初)を完成させたというのも、凄いことです。この電力によって、1895年に日本初の電車が京都の街を走りました。
ちなみに私は先日、花巻の大沢温泉にいってきたのですが、1912年にその近くに、花巻で最初の水力発電所(松原発電所)が建設され、1915年に岩手県初の電車が営業を始めています。ご指摘のように、これらの事業に宮澤一族も大きく関わっていたわけですね。
というわけで、田辺朔郎という若者の開拓者的な才気には今さらながら感嘆するとともに、それから20年遅れとは言え、東北の片隅で発電所や電車を実現させた花巻の町衆の先進性も、並大抵のものではないと思います。
賢治はしばしば「田舎の詩人」と言われますが、このような新しさも持った町「花巻」だからこそ、彼のようなハイカラな人間を生んだ面もあったのではないかと、あらためて感じます。
新しもの好きの賢治が、珍しいインクラインに関心を持った可能性は高いと思いますし、もしも「インクライン班」と「汽車班」が本人の選択制になっていたのなら、「インクライン班」を選んだのではないかと、私も勝手に想像をしているところです。